未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

不安な個人、立ちすくむ国家、経産省若手プロジェクト著、読了、濫読日記風 2018、その60

FEDという主に経済書・ビジネス書を中心に取り上げている読書会の課題図書なっていたので不安な個人、立ちすくむ国家を読んだ。読書会にも参加した。

本書の元になっているものは経済産業省の若手官僚がまとめたレポートで2017年に発表されるやネットでは話題騒然になった。私も早速ダウンロードして読んだクチである。下記からダウンロードできる。
「不安な個人、立ちすくむ国家」

様々な反響がありメディアでも大きく取り上げられた。
「立ちすくむ国家」経産若手官僚の警鐘(前編) | 文春オンライン

本書はその元となったペーパーと若手官僚へのインタビュー、著名人との座談会(解剖学者の養老孟司氏、企業再生のスペシャリスト、経営共創基盤代表取締役CEO冨山和彦氏、批評家の東浩紀氏)からなる。

官僚が感じる問題意識は漠然と多くの人が知ってはいた問題かと思う。大きな問題にも関わらず、個人としてどのように自分ごととして関わればいいのか全く見えない、一方で政治や国のシステムとして対処できるかというと一向に先行きが見えない、そんな感じがタイトル「不安な個人、立ちすくむ国家」に表現されている。

時代遅れの制度を変える様々な提案は出てきている。それを実現する段階(34ページ)だがなかなか進展していない。

例えば、子供や教育への投資を財政における最優先課題に(38ページ)というお題目はあっても遅々として進まない。
ネットでは「具体的な政策への落とし込みが足りない」(48ページ)というような批判的な意見も多かったようだ。

自分ごととしてどうすればいいのか。人生100年時代、どう生きればいいのか?半径5メートルで考えてみるきっかけに本書はなる。日本のシステムという大きな主語ではなく、自分ができる半径5メートルのことがらを考えると本書はマクロな傾向を示す精度の高い地図になる。

人口動態なんかは10年単位だし、制度が変わるのも数年単位なので、変化が早い時代においては、この制度や仕組みが変わる遅さを理解した上で本書を先行きをみる地図としながら、自分ごととして歩んでいく。

平たく言えば仕組みに頼らないで自分で生きていく(国にはあんまり頼らない)という身も蓋もない話になる。その上で今ある制度を十分理解した上で使いこなすということだと思う。(年金なんかはあてにならない。だけど選挙にはいく)

本書を読んだのは一年くらい前なのだけど、付箋を貼ってあった場所をもう一度読み直してみると再発見があっていろいろと面白い。

半年前ですら自分がまさか定年退職して大学院博士課程の学生になるなんて想像もしなかったのである。もちろん定年であるというのは理解していたけど、その後の進路は全く白紙状態だった。そんな自分が学生になって研究活動を始めるという。この面白そうなことをやってみるという行動指針が不確実性の時代のサバイバル戦略なんじゃ無いかと本書をパラパラ読み直しながら思った次第である。

本を読んで自分の人生に照らし合わせてみる。もう一度、読書会をしてみたいと思った。


濫読日記風 2018

遅刻してくれて、ありがとう(上、下) 常識が通じない時代の生き方、トーマス・フリードマン著、伏見威蕃訳、読了、濫読日記風 2018、その59

遅刻してくれて、ありがとう(上) 常識が通じない時代の生き方遅刻してくれて、ありがとう(下) 常識が通じない時代の生き方を読んだ。

タイトルがいい。「遅刻してくれてありがとう」

著者はフラット化する世界 [増補改訂版] (上)フラット化する世界 [増補改訂版] (下)トーマス・フリードマンだ。

世界は幾何級数的に変化している。ムーアの法則を我々は知っている。半導体の集積度が18ヶ月で倍になるというアレだ。

変化がとてつもない勢いで加速している。我々はどんどん忙しくなってきている。

待ち合わせで時々相手が遅れることがある。10分、15分、相手はかならず慌てていて、座ると同時に謝る。「地下鉄のレッド・ラインが遅れて………」、「目覚まし時計が故障して………」。ある時、相手の遅刻がちっとも気にならないことに、ふと気づいて、私(フリードマン)は行った。「いや、やめてくれ、謝らないでほしい。それどころか、遅刻してくれて、ありがとう」(15ページ)

遅刻した相手をイライラして待つのではなく、自分のための時間を作ることができたとフリードマンは言う。じっと考える時間が見つかった。

冒頭のエピソードが面白い。「遅刻してくれてありがとう」。そんな時代に私たちは生きている。

変化は加速している。2007年に何が起きたのか、ムーアの法則、スーパーノバ、市場、母なる自然。

変化をすることが前提になる社会で生きている。変化に対応するために学び続けないといけない。仕事も組織も変化していく。

ヒントに満ちた良書だった。

濫読日記風 2018

RISC-V原典 オープンアーキテクチャのススメ、デイビッド・パターソン&アンドリュー・ウォーターマン著、成田光彰訳、読了、濫読日記風 2018、その58

RISC-V原典 オープンアーキテクチャのススメを読んだ。

RISC-Vは全くもって門外漢なのだが、本書はとても読みやすかった。久しぶりに未知のアーキテクチャーの参考書を読んだ。

著者らによるRISC-Vの入門書は以下になる。「Computer Organization and Design RISC-V Edition: The Hardware Software Interface (The Morgan Kaufmann Series in Computer Architecture and Design) (English Edition)」。日本語訳はまだ出ていない。勢いでこちらの書籍も購入してしまった。

RISC-VはRISCの提唱者のパターソンらが数々の商用アーキテクチャを研究し尽くし、その問題点を解決したアーキテクチャである。

1章でRISC-V開発の動機を語っている。IntelX86アーキテクチャに代表されるものは、過去の互換性に縛られたインクリメンタルISA(Instruction Set Architecture)方式によって開発された。新しいプロセッサを開発する際には拡張した部分の新しいISAだけではなく、過去のすべての拡張も実装しなければならない。(4ページ)

x86は1978年に登場した時に80命令だったのが、時と共に命令数は増大し、2015年には1338命令になっている。(図1.2 x86命令数の推移、3ページ)

ISAマニュアルのページ数もRISC-Vに比較して10倍以上である。(13ページ)

ISA ページ数 語数 読むのに必要な時間
RISC-V 236 76,702 6
ARM-32 2736 895,032 79
x86-32 2198 2,186,259 182

RISC-Vは過去のアーキテクチャー設計者がおかした様々な誤りを直したものということになっている。有名なところでは、分岐における遅延スロットは採用していない。

RISC-Vの仕様はオープンソースなので自由に利用できる。RiSC-VがLinuxのように広く普及するかどうかは未知数ではあるが、ハードウェアの分野でこのような試みがなされることは興味深い。

本書の分量は200ページほどで、その設計思想などをわかりやすく記述しているので、マニュアルを読む前段階として、気楽に読める。

本書とともに、マニュアルと前述の入門書「Computer Organization and Design RISC-V Edition」を押さえておけば、RISC-Vの概要の理解は十分得られる。

参考文献なども十分載っているので、楽しみながらコンピュータアーキテクチャについて学べる良書だ。オススメである。


濫読日記風 2018

オン・ザ・ロード (河出文庫)、ジャック・ケルアック著、青山南訳、読了、濫読日記風 2018、その57

オン・ザ・ロード (河出文庫)を読んだ。

アメリカのロードムービーだ。

主人公は、酒を飲んで、セックスをして、旅をする。時代は第二次世界大戦後。

本書を読んで米国を車で横断したいと思った。東海岸から西海岸まで行って、またぐるっと東海岸に戻ってくる。特に目的もなく全米を往復する。そんな旅をしてみたい。


濫読日記風 2018

天才 (幻冬舎文庫)、石原慎太郎著、読了、濫読日記風 2018、その56

天才 (幻冬舎文庫)を読んだ。

若い人は田中角栄も政治家としての石原慎太郎も知らないことだろう。田中角栄金権政治を真正面から批判したのが石原慎太郎だと言ってもピンとこないに違いない。ましてや芥川賞作家だ。

その石原慎太郎が宿敵田中角栄を一人称で描いた。面白かった。

政治なんかにうつつを抜かさずにずっと小説を書いていればもっと面白い作品をものにしたのではないかと思わなくもない。




濫読日記風 2018

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)、平田オリザ著、読了、濫読日記風 2018、その55


わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)を読んだ。

実は随分前に平田オリザさんの講演を聞く機会があって、その時に本書を読んでいた。*1

本書は「コミュニケーション能力とは何か」とサブタイトルにあるように、コミュニケーション能力というふわっとした問題を扱っている。

自分にとっての衝撃は137ページにあった「列車の中で話しかける」というエピソードである。

平田さんは演劇のワークショップを日本各地で開催している。その教材の一つに「列車の中で他人に声を掛ける」というスキットがある。
列車の中、四人がけのボックス席で、AとBという知り合いの二人が向かい合って会話をしている。そこに、他人のCがやってきて、「ここ、よろしいですか?」といった席の譲り合いのやりとりがあり、Aさんが「旅行ですか?」と声をかけ、世間話が始まるところまでがスキットになっている。
一見、なんの変哲も無い台本だが、いざ、これを高校生などにやらせてみると存外うまくいかない。(略)そこで高校生に「どうして、これが難しいのかな?」と聞いてみると、「初めてあった人と話したことがないから」というのだ。(略)日本の中高年の男性には、席の決まった宴会ならいいけれどもカクテルパーティーは苦手という人が結構いる。(略)あぁ、みんな結構人に話しかけるのは苦手なんだなということに気がついて、(略)以下の質問をするようになった。「列車や飛行機で他人と乗り合わせたときに、自分から声をかけますか?」(略)(137ページ〜139ページ)

あぁ、自分も確かに昔は知らない人に声をかけていた、だけど最近はめっきり声をかけなくなった。雑談力がとみに低下している。どうでもいい話をしていない、そのスキルがどんどん低下している。

ドストエフスキーの白痴の最初のシーンは主人公が列車で居合わせた人たちと世間話をすることから始まる。このシーンはもはや現代の若者やおじさんたちにはリアリティのある設定ではなくなってしまったのか。

いやはや。

本書を読んで以来、知らない人と世間話をするというのが自分の課題になっているのだが、なかなか敷居が高い。(誰も信じてくれないけれど人見知りである)



濫読日記風 2018

歴史の進歩とはなにか (岩波新書 青版 800)、市井三郎著、読了、濫読日記風 2018、その54


歴史の進歩とはなにか (岩波新書 青版 800)を読んだ。

歴史とは何か (岩波新書)、E.H.カー著、清水幾太郎訳、読了、濫読日記風 2018、その52 - 未来のいつか/hyoshiokの日記で「歴史とは何か (岩波新書)」を読んだのだけど、歴史観の名著の一つが本書だ。

「歴史とは何か」がイギリスの歴史家によって書かれたものなので、西洋史観であり、本書は日本の哲学者によって書かれたものなので東洋史観である。

自分にとっては本書の採用する「史観」により納得感を得た。

「歴史とは何か」が1960年前後の時代を反映しているように、本書は1970年前後の時代を反映している。すなわち前者は第二次大戦後であり、後者は戦後20年以上経った高度成長の時代であり、世界は東西冷戦で、米国はベトナム戦争の泥沼にはまっていた。

世界史が西欧の力による征服の歴史であることを本書は繰り返し指摘する。「ヨーロッパの諸民族が他の土地に訪問する場合(彼らにとっての訪問は略奪と同一のことである)、彼らの示す不正は恐るべき程度に及んでいる」(カント「永遠平和の為に」)(39ページ)

本書が引用している様々な哲学書や古典を読んでみたいと思った。


濫読日記風 2018