未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

村上春樹の言葉

2月15日、村上春樹イスラエルエルサレム賞を受賞し、スピーチを行った。文藝春秋四月号(今、本屋で売っている号だ)に、村上春樹のインタビューが載っている。プロフェッショナルな小説家として、なぜイスラエルに行って、そのエルサレム賞を受けたかを語っている。

村上春樹エルサレム賞受賞が報じられてから、わたしも村上春樹は賞を辞退するべきだと思っていた一人なので、なぜ、彼がその賞を受けたのか、非常に興味を持って、そのインタビューを読んだ。また一方で、村上のスピーチ全文がインターネットにおいて、様々な形で翻訳され、読む機会を持つうちに、村上の同時代の作家としての行動に感心を深めた。

村上のインタビューは約8ページにわたって掲載されているのだが、彼のスピーチ全文(英語、日本語)とあわせて読むとプロフェッショナルな作家の凄みを感じる。言葉に対する希望に満ちている。小説家が表現することとはどのような事かということを語っている。彼は言葉のチカラを理解している。そして、それを操っている。

彼は「人々の前で自由に話す機会を与えてもらえるのなら、行く価値があるかもしれないと考えました」と語たる。「受賞を断わるのはネガティブなメッセージですが、出向いて授賞式で話すのはポジティブなメッセージです」
「ただ一方で、自分は安全地帯にいて正論を言い立てる人も少なくなかったように思います。たしかに正論の積み重ねがある種の力を持つこともありますが、小説家の場合は違います。小説家が正しいことばかり言っていると、次第に言葉の力を失い、物語が枯れていきます。僕としては正論では収まりきらないものを、自分の言葉で訴えたかった」
正論では収まらない何かを語る。
「ネット上では、僕が英語でおこなったスピーチを、いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。翻訳という作業を通じて、みんなが僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした」
インターネットのブログでの正論は、村上春樹のスピーチを無許可で翻訳することは著作権法に違反する行為である。したがって、そのような事はやるべきではない。(違法だから)。しかし村上春樹という作家にとっての正論は自分のスピーチをいろいろな人が自分なりに引き取ることに価値を持つということである。わたしはこの一点においても、村上春樹の作家としての凄みを感じる。自分の言葉をどれだけ広げるか、たとえ批判を受けると判っていても、実際イスラエルに行くことは批判を受けた行為だったけど、それ以上に自分が自分の考えを世界に向けて発信することの方が遥かに価値があると信じそれを実行したという意味において彼の覚悟を感じる。
「一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない」
「小説家というものは、自分の目で実際に見た物事や、自分の手で実際に触った物事しか心からは信用できない」と言う。そのために、多くの人からイスラエルに行くべきではないと忠告されたが故に、彼は自分の目でイスラエルを見るために、「だからこそ私はここにいます」と語った。
そして、それが、「壁と卵」という歴史的なスピーチである。彼はたとえ非難されることがあったとしても作家としての良心にしたがって、その場に行くことを引き受け、そしてそれを表現した。評論家ではなく実践者である。わたしは、彼のハッカー魂をそこに見る。言葉によって社会を変えうるということを信じているという意味で、彼はまさしくハッカーである。
文藝春秋4月号750円。読め。