未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

昔DECという会社があった。エンジニアとして必要な事はDECで学んだ。

大学を1984年に出て、新卒で入社した会社がDECという会社だった。その当時日本デジタルイクイップメント研究開発センター株式会社というのが日本にあってそこに新卒バリバリで入社した。その会社は米国のDigital Equipment Corporation (以下DECと称す)の日本子会社であった。当時はDECの販売子会社日本ディジタルイクイップメント株式会社と別会社で、後に合併して日本ディジタルイクイップメントになる。

エンジニアリング部門の子会社なので、トップはPhD(博士号)を持っているし、米国本社からの出向者もいて、技術系の外資という感じだった。一方で、新卒入社ということもあり、同期も少ないながら(6名)いて、日本DECの同期と合わせれば、200名近くいて、日本企業的な感じもあった。

DECをコンピュータ産業史的な観点から眺めると、当時コンピュータ産業を支配していたメインフレーム、すなわち、IBMに対し、破壊的なイノベーションであるミニコンピュータをひっさげ市場に登場した新星という位置づけである。60年代にインタラクティブコンピューティングというパラダイムを打ち立て、米国のコンピュータサイエンスの最先端、例えばMITとかCMUとかStanfordとかの研究所でデファクトで利用されていたコンピュータはIBMメインフレームではなく、DECのコンピュータであった。

Unixは米国ATTのベル研究所で開発されたというのはよく知られている事実であるが、それがベル研で使われていなかったDECのPDP-7というミニコンピュータだったということはそれほど知られていない。米国のコンピュータサイエンス系の研究所にはPDP-7やPDP-11などがごろごろしていた。BSD UnixはUCバークレーのVAXで開発された。

コンピュータサイエンスの多くの研究はDECのマシンで行われていたし、インターネットの前身のAPRAARPAnetのノードもDECのマシンが多かった。さらには、80年代日本で行われた第五世代コンピュータの研究開発用マシンはDEC-10の後継のマシンであった。人工知能の研究、特にLispの研究にはDEC SYSTEM10/20が利用され、MIT Lispなどはそのマシンで実装されていた。

1980年代に自分が新卒として入社したDECという会社はそのような会社であった。若い人には想像できないかもしれないが、当時の勢いはFacebookとかTwitterとか、そーゆークールなイメージであった。

コンピュータ産業はIBMによって支配されていて、米国系メインフレーマーとしてバロース、Univac、NCR、CDC、ハネウエルなどがあった。その頭文字をとってBUNCHと呼んだ。どの会社もいまやメインフレームから撤退していて、誰も覚えていない。

日本では、富士通、日立、NEC東芝、沖、三菱電機などがIBMに追いつこうと必死になっていた。三菱電機日立製作所の社員がIBMメインフレームOSの機密情報を米国国外へ持ち出そうとしてFBIに逮捕されたのも、80年代である。*1

DECはスーパーミニコン(32ビットミニコンを当時そういった)VAXでメインフレームを尻目に業績を急拡大していった。その当時のVAXを仮想敵にして製品開発をしたのが、Data General (DG)で、その物語が超マシン誕生である。


当時の米国の学生はDECのマシンでコンピュータを学んだと言っても過言ではない。その世代がBill Gatesであり、Steve Jobsである。VMSの開発責任者がMicrosoftにいって作ったのがWindows NTである。


インターネットの歴史ががGoogle以前と以後ですっぱりわけられるように、DECはコンピュータ産業史をメインフレーム以前、以後と切り分けたような会社だった。

いまでは当たり前で、それ以前どうなっていたか思い出すのも難しい話であるが、すべてのコンピュータがネットワークに繋がっていた。一人一人アカウントを持ち、メールアドレスを持っていた。

そんなことは当たり前と若い人は思うかもしれないが、コンピュータがネットワークで繋がるというのが当たり前でない時代があったのである。そして、メールと言うのが当たり前でない時代があったのである。

外資系で、メールというのを生まれて始めて利用して、とてつもなくワクワクしたのを覚えている。会社のコンピュータがすべてネットワークで繋がって、アクセスできるということにワクワクしたのを覚えている。アクセスしたコンピュータがネットワークを通じて海外の本社のコンピュータであるということを知ったときの驚愕を覚えている。

今日当たり前のことを1980年代に経験した。それはまさに、未来の当たり前のことが日常的にある会社であった。

そして、その会社を作ったのがKen Olsenという技術者である。MIT出身のコンピュータ技術者がIBMに続く世界第二位のコンピュータ会社を作った。

ミニコンピュータというマーケットセグメントは、後にUnixワークステーションやPCに市場を奪われ無くなっていく。Unixワークステーションの覇者はSun Microsystemだったのだが、それもいまはOracleに買収され会社としては存在しない。

一社がハードウェアから、OSから、ミドルウェア、ネットワーク、アプリケーション、なにからなにまで提供する垂直統合のビジネスモデルから、80年代、それぞれのレイヤーは別々の会社が提供する水平分散型のビジネスモデルへと大きく時代の舵が切り替わった。

垂直統合のビジネスモデルで唯一生き残ったのがIBMで、DECは残念ながら市場から撤退した。

DECで当たり前だったこと

コンピュータがピアツーピアでネットワークしている。どこかに管理ノードがあって、階層構造になっているのではなく、直接対話できること。この社内のネットワークは当時世界最大だと言われていた。

コンピュータがすべてネットワークで繋がれているおかげで、情報共有が自然発生的に行われていた。社内にはVAX Notesという掲示板があり、様々な情報がそこの上で公開されていた。開発中のプロジェクト、製品情報、サポート情報などがインフォーマルでカジュアルに共有されていた。製品の情報だけではなく、趣味の情報や、中古品の売ります買います情報、ちょっとした質疑応答などありとあらゆる情報が共有されていた。

それだけではなく、ちょっとしたツールや、スクリプトなども、公開されていて、便利そうなものを適宜利用するという文化がそこにあった。

ちょっとしたツールなどは、ソースコードこみで公開されているので、機能の変更や拡張、バグ修正などは、腕に自信のあるプログラマなら簡単に行えた。

計算機資源は自由に使えたので、それを利用して、仕事と直接関係しないソフトウェアを作ることなども日常茶飯事で行われていた。VAX Notesという情報共有インフラも当初はそのような経緯で開発されてた。

このような未公認のプロジェクトのことをミッドナイトプロジェクト(夜中に勝手に物作りをするということで、そのように呼ばれていた)とよび、会社のいたるところで、そのようなことが行われていた。マネジメントはそれを見て見ぬふりをするだけではなく、むしろ奨励さえしていた。

インターネットが一般に普及する前夜、1993年のころ、誰かがX MosaicというWebブラウザを発見し、社内に紹介した。瞬く間にそれは社内で普及した。社内からゲートウェイを経由してインターネットに自由にアクセスできるようになった。以前からも社内からFTPサーバやWAISやGopherなども使えたのであるが、ごく一部のユーザにしか普及していなかった。Mosaicはそれをあっという間に一般のユーザまで拡大した。

日本DECのインターネットフリークたちにも瞬く間に普及したのであるが、問題は日本語を標準的に扱う方法がなかった。当時infotalkというNTTの高田さんが主宰していたメーリングリストがあって*2、そこで日本語パッチの情報が交換されていた。社内のハッカー(上野さんだったと思う)が、そのパッチをDECのUnixである、Ultrixへ移植して遊んでいた。わたしの日々の開発環境はVMS(DECのプロプライエタリのOS)だったので、土日に会社に出てきて、Ultrix版を見よう見まねで移植した。何かツールで移植するというよりも、Ulitrixのパッチを見ながら、手でコピペしたというのが実状である。Xの知識もなにもないながら、Ultrix版の差分をVMS版へ一個一個カット&ペーストするのである。

VMS版の日本語X Mosaicはそんなこんなで作って、社内のどっかのディレクトリに放り込んでおいた。後は使いたい奴が勝手にコピーしてインストールすればいい。インストーラー付きで開発したので、管理者権限でログインして $ @VMSINSTAL file-nameみたいなコマンドをたたけば誰でもインストールできる。お気軽である。

社内のインターネットフリークが集まっている掲示板(もちろんVAX Notesだ)にVMS版作ったよ〜、勝手に使ってね〜みたいなことを投稿したら、あれよあれよというまに社内のVMSワークステーションにインストールされていった。ウィルスみたいなものである。

これって、いまや普通にオープンソースの界隈で起こっていることではないか。必要にかられてプログラムを作る。公開する。誰かが使う。その文化だ。

ちょっとしたツールをミッドナイトプロジェクトとして、仕事に支障のない範囲で作ることが奨励されていた。Googleが20%ルールとして宣伝するはるか昔の話である。*3

社内勉強会も普通に行われているし、社外のセミナーに行くことも奨励されていた。VAX Notesに開発日誌を公開する奴もいた。情報公開が善であるという文化があった。

インターネット前夜のことであった。

そして、そのようなエンジニアリングカルチャーがDECという会社の価値だったと思う。

わたしは、そのような文化をDECで学び、情報発信をすることが自分を成長させることを学んだ。そのようなエンジニアリングカルチャーは正しいと信念として思う。そして、そのような文化に育まれたエンジニアがインターネットを通じてその価値観を浸透させ、その子供たちが、社会を少しずつ変えて行ったと思う。

Ken Olsenが経営者としてPCやUnixを無視したことによって、DECは時代から取り残され消え去った。しかし、そのおかげでPC産業が生まれ、Bill GatesやSteve Jobsの時代になり、そしてインターネットの時代になった。DECで学んだエンジニア達は、様々な会社に巣立ち、エンジニアを尊重する企業文化を作ってきた。

Ken Olsenがこの2月6日に亡くなったというニュースを聞いて、DECという会社に80年代いたことを僥倖に思うとともに、多くのことを学ばせてもらったということに改めて感謝したい。*4

エンジニアとして必要な事はDECで学んだ。

Wikipedia:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3