未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

大漢和辞典の思い出

補助漢字の思い出(d:id:hyoshiok:20060518#p1)で記したように今から20年前、わたしは補助漢字として知られる、JISX0212:1990の選定委員の一人だった。1988年にそれに参加して、その時、30歳になったばかしのペーペーのエンジニアである。当時の委員は、国産メインフレーマ、プリンターベンダ、印刷会社、新聞社、学識経験者などで委員の肩書も大手企業の部長とかがほとんどで、わたしのようなペーペーはほとんどいなかった。

世の中、メインフレーム全盛で垂直統合ベンダーが我が世の春を謳歌していた。マイクロソフトやアップルなどは、その委員会に呼ばれもしなかった。そういう時代である。

DECという米国企業の日本の研究開発センターにいたわたしがなぜその委員の末席をけがすことになったかというと、国際標準機構(ISO)の文字コードのワーキンググループ(SC2/WG2という)のeditorが当時DECから出ていたので、そんな経緯で、委員会に出ることになったのだと思う。

その委員会では、文字種が足りないという問題に対し、様々な文字の追加要求があり、それを一個一個文字を同定し、JISX0212にいれるかいれないかを判定していくという気の遠くなるような作業を延々行なっていた。大きな会社の部長さんだったりすれば、会社に帰れば、部下に、そーゆー仕事をやらせることもできるが、まあ、わたしはペーペーだし、漢字なんてよくわからないので、その意味であんまり貢献もできなかった。

その時、文字をどう同定するかという問題を漢字委員会では、大漢和辞典を利用することによって解いていた。大漢和辞典というのは諸橋轍次博士が一生をかけ編纂した親字5万の世界最大規模の漢和辞典である。

大漢和辞典の特長の一つはその親字の規模であるが、それ以上に一つ一つの文字に番号が振ってあるため、大漢和辞典の番号で文字をユニークに識別できるのである。

そこで漢字委員会では新規に追加する文字について大漢和辞典の番号をふった。大漢和辞典に載っていない氏素性の不明な漢字については原典を探すということをして、それでも見付からないものは、採用しないという方針をとっていた。

JISX0212-1990の解説には「調査に当たっては、個々の漢字をすべて漢和辞典などで確認することを原則とした。具体的には、大漢和辞典(諸橋轍次編、大修館書店刊、昭和41年縮写版第1刷、修正版第9刷)を利用した。大漢和辞典に収載されていない漢字については、大字典(上田万年等編、講談社刊)、その他異体字や地名、告示などの字典類、更に国語辞典などを参照した」と記されている。

大漢和辞典 諸橋轍次博士の序文を読んでほしい。http://www.taishukan.co.jp/kanji/daikanwa_jo.html

昭和二年(1927年)に書肆(しょし、出版社)と契約し、昭和十八年には第一巻を発行した。「続いて二巻三巻と刊行する予定であったが、二十年二月二十五日の劫火によって一切の資料を焼失した。半生の志業はあえなくも茲に烏有に帰したわけである」

戦火によって焼失するのである。文化的偉業が焼失するのである。

しかし、「不幸中の幸とも言おうか、全巻一万五千頁の校正刷りが三部残って居った。そこで一部は手元に、一部は私の管理していた静嘉堂文庫に、他の一部は故岩崎小弥太男の好意によって甲州の山奥に蔵した」、「そしてその年の八月十五日、遂に終戦の哀詔を拝することとなったのである」

戦争に負け、原稿は焼失する。

「祖国が既にかかる一代変故に遭遇したのであるから、一箇の私の事業などはいかなる運命になっても仕方がないと一時は諦めたが、その後、時の経つにつれて又別の考えが起って来た。それは著者としての責任感である。私は既にこの書の刊行を天下に公約した。現に第一巻を購入した多くの人々もある。それらの人々に対して、たとえ幾多の困難があるにしても、このままに事業を中止することは許されない。且つ又、従来この書に対しては深い同情を寄せて下さった多くの人々もあった。それらの人々に対しても同様である」

そして、右眼は失明し、活字は焼失したなかで諸橋轍次博士がどのようにして、5万字の活字を作り、辞典を編纂し最後には文化的偉業をなしとげたのか。ぜひ、大漢和辞典 諸橋轍次博士の序文を読んでほしい。

凄い人がいるものだ。博士の命を賭けた偉業によって、数十年後、コンピュータの文字コードを作るという作業が行えた。コンピュータなるものがない時代に文字コードの基盤(プラットフォーム)を作った博士の偉業を日本人の一人として誇りに思う。

Unicodeももちろん諸橋大漢和辞典の肩の上にいる。