未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

ちょうど20年前に最初の転職をした

新卒で入社した日本DECを11月で退職して、1994年12月に日本オラクル株式会社に転職をした。そのときは、後に米国Oracleに出向になってシリコンバレーOracle 8の開発に関わることになるなんてことは全く思っていなかった。

日本DECに残っていても開発の仕事はどんどんなくなるし、できればもう少し開発の仕事を続けたいとは思っていたが、日本オラクルに転職したからといって開発が出来るとは限らないし、当時の日本オラクルは販売会社なので、むしろ開発の仕事の機会は減るのではないかと思っていた。開発を続けたいと思いつつも、開発の機会が減る選択をするという矛盾した行動は、いまから考えると、そーゆーことを言えるが、そのときはある種の勢いで転職したというのが実情である。何事もタイミングと勢いか。

きっかけはいくつかある。一つは1993年に初めて行われた日本DECの希望退職制度である。指名解雇ではないので、従業員が自らの選択肢として退職を選ぶという制度である。いまでこそ、希望退職制度が珍しくもなんともないが、当時としては青天の霹靂であった。会社が従業員のクビを切るという制度である。会社からみればクビを切るのであるが、従業員からみれば、自分で退職する道を選ぶ。

30代なかばで、会社は一生涯いる場所ではないと言うことを明示的に理解した。薄々気がついていた訳であるが、積極的に転職をするということは、正直真面目には考えていなかった。それこそ、履歴書の書き方、職務経歴書の書き方、退職届のフォーマットなどなど全くもって知る由もなかった。

さすがに外資系に勤めていたので年功序列とか終身雇用とかそんな制度が明文的には存在しない訳ではあるが、基本的には長期雇用だし、上司は年上で、部下は年下で、採用は新卒の一括採用が多い。

そんなこんなで、1993年の希望退職制度の発表は自分のキャリアを考えるきっかけになった。募集定員はあっといいうまに埋まって、多くの同僚が日本DECから去って行った。自分の転職についてちょっと考えるきっかけになった。

そして、もう一つのきっかけは、自分が担当していたDEC Rdbというプロダクトが米国Oracleに1994年に売却されたことである。DBMSを作っていた部門ごと米国Oracleに売却されたのである。米国DECにとってRDBMSは基幹製品ではないという判断をして、売れるところから売ってしまって短期的な利益を得る。長期的な利益を捨てて四半期業績をよくするという典型的なオペレーションである。それをやって業績が回復した例はほとんどない。選択と集中というと聞こえは良いが、短期的にはそれ以外の方法はない。

業績が下降している状況での部門売却というよく見る光景である。そのまっただ中にいた。

さて、そのような状況の中で、どうするか。このまま縮小傾向にある会社に残るのか、それとも別天地を目指すのか。

インターネットが爆発する前夜。DECはインターネットへのゲートウェイを持っていたので、従業員は自由にインターネットへアクセスできた。自分もX Mosaicという世界初のウェブブラウザーをVMSに移植して社内からネットサーフィンをしていた。(VMSというのはDECの商用OS)

社外の宴会系メーリングリストに出入りして、飲み会などに参加していた。三度の飯より宴会が好きと言うキャラが確立したころである。

日本のインターネットの黎明期で技術的にも尖っている人たちと交流できたのは僥倖であった。いまで言う勉強会的なコミュニティーである。会社の外にもいろいろ凄い人がいるという当たり前のことを知ることになる。

日本DECの営業の同期で日本オラクルに転職した井上さんと飲み会をしたのもそのころである。hyoshiokさん、Rdb担当でしょ、オラクルどうですか、みたいな感じで与太話をしたのだが、当時、DEC RdbTPC-Cは世界最高速だし、スケーラビリティはあるし、機能は圧倒的にRdbの方が上で、Oracleなにそれ、おもちゃじゃん的な上から目線で考えていた。いくらなんでも競合他社に転職すると言うのは自分の職業倫理的にも考えにくかった。

しかし、営業の現場ではDEC Rdb ではなくOracleが売れに売れていて、それが理解できなかった。DEC AlphaのワークステーションではなくSunのワークステーションが売れに売れていた。そこには時代の潮目の変化があったのだが、垂直統合の会社にいると、それがまったく見えていなかった。

いまだからこそ言えるのであるが、当時その潮目の変化にほとんど気がついていなかった自分がいる。

井上さんとの飲み会でなんでOracleは売れて、機能も性能もすぐれているDEC Rdbは売れないのだろう。営業がだめだからなのか。そんなことを考えていた。

顧客が求めていたのは機能や性能ではなかった。結局、Oracleが提供するポータビリティーやハードウェアベンダーからの独立性などを顧客が求めていたものである。DEC RdbはVMSというDECの商用OSでしか動かない。Unixサーバーでは動かない。Unixサーバーにある様々なアプリケーションパッケージと一緒に動かすことができない。DECのプロプライエタリな世界でしか動かない。ハードウェアベンダーにロックインされることを顧客は嫌っていたのである。

垂直統合ビジネスモデルから水平分散ビジネスモデルへの変化である。その変化の潮目は80年代中頃からはっきりとしていたのであるが、自分がそれに気がつくのに10年近くかかったわけである。

1994年秋にまた希望退職制度が発表され、そのときにいろいろとまよったが、結局応募し、日本オラクルへ転職した。20年前、36歳の転職である。