未来のいつか/hyoshiokの日記

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物語論 (講談社現代新書)、木村俊介著、読了、濫読日記風 2018、その35

物語論 (講談社現代新書)を読んだ。

自分の中で「積読製造器」というジャンルの本がある。書評系の書籍などはまさにそれだ。紹介されている本が読みたくなってどんどん積読が増えていく。恐ろしいジャンルの本である。

本書は作家が自身の作品の創作について語る。小説の読み方や書き方が見えてくる。その作家の作品をもっと読みたくなる。読書案内にもなる。図書館で借りた。

以下は自分にとってのメモ書き。

村上春樹 11p、「悪霊」や「カラマーゾフの兄弟」はロシア語だから僕には訳せない。13p、新訳で「カラマーゾフの兄弟」を読み直していますけど、あれはほんとうに途中で立ち止まらなくて良い、読みやすい翻訳ですね。
橋本治 26p、わたしがワープロで描かなくなったのは、三島由紀夫について描いているときに、三島の直筆原稿が頭に浮かんだからです。34p、小説の主役は読者であって、たまに作者が主役になっている小説を読まされると辛いのは、描写とはたとえ一人称で書かれていても、これは他人にとってはどう見えるのだろうという視点が入らなければ小説ではないと、私が思っているからなんです。
重松清 53p、「コインロッカー・ベイビーズ」(講談社文庫)の時、村上龍さんが、100メートルダッシュを繰り返して、四二・一九五キロを走った、とあとがきに書かれていましたが、その言葉をずっと意識しながら書いていきました。
桜庭一樹 57p、「ファミリーポートレイト」(講談社)では、いまの時代ならではの女性のハードボイルド小説を書きたかったんです。
根岸たか旨 102p、その頃にともだちから「おまえ、最近天狗になっていないか」と事実を指摘されてしまいました。
渋谷陽一 121p、有名人とメシを食ったことを自慢するタイプのインタビュアーって馬鹿ですよね。 たとえばジョン・レノンは僕にとっては神様のような存在ですけど、それでも彼と二時間食事をするよりは三十分のインタビューする方が絶対におもしろいと思うんです。もっといえば、100回のメシよりも一回のインタビューのほうがいいんです。
かわぐちかいじ 136p、それぞれの漫画家が、何十年間もそれで生きてきた伝家の宝刀のようなものは、その人だけのものとして使われてきただけだった。そういう技術をいろいろな現役漫画家に聞いて、言語化して残しておくのはおもしろいことかもしれない。
弘兼憲史 165p、ディテールの重要性は痛感していましたから、国会議員への直接取材ではまず「朝食に何を食うか」「国会が休みの時はどこに行くか、何をしているのか」という日常の取材から始めました。
平野啓一郎 193p、以前、タクシーに乗ったら唐突に運転手のおじさんに話しかけられて、「お兄さんたちの世代が就職できないのは、結局、上の世代の雇用が守られているからでしょ」って言うんですよ。 196p、僕は、東西冷戦を自分の問題として経験した世代ではありません。ですから、一九八九年のベルリンの壁崩壊には驚いたけどあんまりピンと来ていなくて、むしろ、九一年の湾岸戦争の方がテレビで見ていて印象に残っています。
平野啓一郎 202p、「決壊」(新潮文庫)は、最初から問題を綺麗に整理せずに、そうした言葉の「迫力」をうまく出せたらと考えながら書いていたところもあるんです。 三島由紀夫が三十代のはじめに書いた「金閣寺」と。自分が三十代の前半で書いた「決壊」を比べて考えると… 209p、文学が「マイノリティ」であることを自認するのなら、もっと必死に「伝える」努力をすべきですよ。その意味で、レジス・ドブレの「メディオロジー宣言」には影響を受けました。
平野啓一郎 213p、顔認証の精度がどんどん向上していく近未来において「顔認証検索」がネットで大規模にされるようになった時、果たして監視社会や管理社会はどうなるのか、そういう未来予測も組みこみました。「ドーン」
伊坂幸太郎 221p、サッカーの映像を参照しながら、メッシが敵を抜いていく動作を、やっぱりいちいち文章で書き起こしてみたり。そういう「動きのデッサン作業」のようなものって、文章修行とかとはまた違うんでしょうが、発見があるので、やりたくなります。 228p、ドストエフスキーの小説にしても、なくてもいいようなくだらない話がいちいちたくさんあって、意味はないんだけどクスクスできたりニヤニヤできたりするじゃないですか。

インタビュー集として成功していると思った。ドストエフスキーを読んでいるとインタビューをニヤニヤ、クスクスしながら読めるかなと思ったが、それほどでもなかった。若干心に余裕ができた感じはしたけど。



濫読日記風 2018