自分の人生は自分で決める。
先日のエンジニアの未来サミットで、「自分の人生は自分で決めよう」ということを言ったら、よしおかさん、自己責任論言いすぎと揶揄された。自分は、一言も「自己責任」という言葉を使っていないつもりだったのだけど、世間ではそうとらえるのねと非常に勉強になった。
自己責任って何だ?
わたしが繰り替えし主張していたのは、あくまで「自分の人生は自分で決めよう」ということである。その主張がマッチョだと言われると、もう何も言えないのだが、まあ、そーゆーことである。
別に努力しろとか頑張れとか言っているのではない。自分の人生は自分で決めようということである。
子供のころ、日が暮れるまで野球をやっていた少年が、いつの日かどうがんばっても自分はプロ野球の選手になれないのだなということを知り、すこしづつ大人になっていく。小さい決断を積み重ね、それが今の自分になる。
家庭の環境や、育った地域、自分ではどうしようもない、簡単には変えられない様々な要因は人生いたるところにある。人生、自分の思うようになることと、思うようにならないことを比べてみれば。ほとんどが自分の思うようにならない、言ってみれば理不尽な事に満ち満ちている。
下らない慣習、息苦しい仕組み、人生のほとんどがそれとどうおりあいを付けていくかのようなものである。
自分が何をやっていいのかよくわからない。どう生きていくのがいいのかわからない。どうしたらいいんですかと聞かれる。例えば、あなたの上司がそれを決めてくれるのだろうか。会社がそれを決めてくれるのだろうか。社会制度がそれを決めてくれるのだろうか。学校がそれを決めてくれるのだろうか。
多分そんなことはありえない。
かつては、戦後、日本国民が食うにこまり、どうにか食うためにがむしゃらに経済成長を目指し、少しでもいい生活を望んでいたころなら、誰に言われなくても、個人も会社も国ですら一丸となって進む道は見えていた。それが幻想であったとしても皆それを信じていたという意味で真実だった。
今はそのような時代ではない。
自分の人生に世界で一番興味があるのは誰だ?会社の上司か?君のことを思って、君のためにこの仕事を用意した、悪いことは言わないから頑張ってくれ、なんて上司が言ったとして、それを素直に信じられるか。自分の知らない潜在能力を上司が超能力者のように察知し適材適所でベストの環境と仕事をアサインして、それに従っていれば、自然と経験が向上していく、そのような夢のような世界がありうるのだろうか。
隠れた才能を発掘する天才プロデューサみたいな話を聞くが、世の中に天才プロデューサがはいてすてるほどいるとは到底思えない。あなたの上司は、あなたとさほど変らない普通の人間だと思う。世に言う天才プロデューサという可能性は低い。ましてやイチローでもなければ羽生名人でもない。
ふつーの人がふつーに自分の人生を生きるのには、毎日毎日ふつーの人生を積みかさねる。与えられた仕事をこつこつやっているうちに気がつくと峠を越えふりかえってみると今まで見えていなかった景色が見える。そんな感じかと思う。
就職のとき、どの会社を選らぶか、そもそも、どーゆー業種を選らぶか、どのような基準で選らぶか、自分で何をやりたいか、何が向いているのか、何が好きで何が嫌いで何ができて何ができないのか、それすら良くわからない。
自分が就職するとき、コンピュータの会社に就職したいんだと父親に相談したら、お前の好きなようにしたらいいという答がかえってきた。父は食肉卸売業を営んでいたから、もちろんコンピュータのこともソフトウェアという言葉も知らなかったであろう。だけど息子の考えを尊重し応援してくれた。
まあ、今になって思うけど、自分が結婚して、娘を持って、自分の娘の人生が心配で心配で、だけど彼女の代りに人生を送ることはできなくて、自分にできることと言えば、彼女の人生を見守り、彼女の決断を励まして応援することくらいだ。彼女は彼女の人生を生きていかなくてはいけない。
ドラフトでプロ野球から指名されるのは精々数十人である。それ以外の何万何十万の野球少年達は、いつのころか職業としての野球を選らばないという小さい決断をしたのである。その決断の積み重ねが今の自分になる。
一直線で何かになろうとする必要なんてない。試行錯誤、成功もあれば失敗もある。人生上手くいかないことの方が多い。多くの人と違う人生をおくったっていいではないか。同じことをコピーする必要なんて全然ない。
自分の人生は自分で決めよう。
あなたの人生を応援してくれる人は絶対いる。わたしが娘の人生を応援するように。