未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

研究者の卵としての2018年ふりかえり

2018年は還暦の年だ。
9月に満60歳になり定年退職をした。(9月末で60歳定年退職しました - 未来のいつか/hyoshiokの日記
人生の節目である。そして、それを機に9月末より東京大学大学院情報理工学研究科博士課程に入学し現役の大学生である。
仕事はすっぱりやめた。
人生100年時代、人生二毛作。18歳のつもりで学び直している。数年後に何が起こるかわからない。変化が前提の時代だ。それゆえに自分の知識やスキルをアップデートしておきたい。それが人生を自由に生きるコツだと思う。

学生は自由だ。何を学ぶか、何を学ばないかを選択する自由がある。今日何をするか、何をしないか選択する自由がある。

若い頃はその自由を持て余していた。何に使っていいかイメージが湧かなかった。社会人経験を積み、自分がやりたいこと、やりたくないこと、得意なこと、不得意なこと、社会から期待されていること、期待されていないこと、様々な軸があることを知り、その中で自分を相対的に位置づけることが必要だということを学んだ。

給料をもらうために会社員をやっていると今日やらないといけないことを自分が選ぶという自由はほとんどない。せいぜい、AとBどちらを先にやるかとか、その程度の選択肢でしかない。毎日会社に行って仕事をする。それ以上でもそれ以下でもない。

学生は自由だ。自分の人生を選択する自由がある。

研究者の卵として研究者に必要なスキルを身につけるにはどのようにしたらいいのだろうか?正直よくわからなかった。先行研究の調査はどのようにしたらいいのだろうか?博士論文のテーマはどのように見つけたらいいのだろうか?全く五里霧中であった。

enPiTという前職時代に関わっていたプロジェクトのFD(教員が教授方法について議論する取り組み)合宿が先日あったので大学教員を務める人々に博士課程のことについていろいろと伺った。

何を今更言っているのだ、お前は。という声が聞こえてきそうである。実際、その通りである。しかし、自分は行動してから考えるという方法で人生を乗り越えてきた。Never too late だ。不確実性の時代、あらかじめ計画を立てておくということは不可能だ。

様々な先輩たちに博論で苦労していた時代の話を聞いた。

琉球大学の國田さんから「できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)」をオススメされた。

これは自分も実は読んでいて、『学術書を書く』、『できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)』読了、濫読日記風、その11 - 未来のいつか/hyoshiokの日記で紹介している。

「できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか」は米国の心理学者がいかに多量に論文を書くかというノウハウを記したものだ。
第2章がすごい。言い訳は禁物ー書かないことを正当化しないとして、「書く時間が取れない」「もう少し分析しないと」「文章をたくさん書くなら、新しいコンピュータが必要だ」「気分が乗ってくるのを待っている」などなどの書かない言い訳、書けない言い訳をあっさり粉砕している。
毎日執筆時間を決めて、その時間には執筆に専念しろという。毎日書く。それだけだという。
これは間違いなく正しい。正しいことだけど、作文技術の教科書にはおそらく誰も記していなかったことなのではないだろうか。画期的だ。騙されたと思って読んでほしい。すごい本だ。
東大生はこんな本を読みながら研究して論文を多数発表して学術書を書いているのだろうか。それができれば苦労しないという声が聞こえてきそうだが、それができない人は研究者にはなれないのだろうなあとも思った。いやはや身も蓋もない。

できてもできなくても毎日毎日論文調査をする。

大学院試験の口述試験の時に使った自己紹介(?)のスライドを見直して、引用した文献を再度調査することにした。それが載っているProceedings、その論文を引用している論文、その論文が引用している論文、専門分野のトップカンファレンスで発表されている論文などを調査することをとっかりとした。

4ヶ月前の自分に助けられた。とっかかりの論文は自分が発見していたではないか。1年半前の自分に助けられた。研究者になるためには、言い訳をしてはいけないということを知識として得ていたではないか。それができていなかっただけだ。

できてもできなくても毎日毎日論文調査をする。

最初の一歩を踏み出せた気がする。