未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

表現する40代、50代

40代、50代の人たちはなぜ表現しないのかhttp://d.hatena.ne.jp/hyoshiok/20090517#p1 には多数のアクセスをいただいた。日記を書いたおかげで多くの人から様々なコメントやトラックバックをいただいた。これもインターネットの可能性、ポジティブな側面だ。ありがたいことである。御礼を申し上げたい。

反応は大きくわけて二つ。A:40代、50代は表現していいる。お前が知らないだけだ。B:40代、50代は表現していない。

Aのパターンは、嬉しいサプライズである。いろいろな人から、こーゆー面白いブログがあるよとか、こーゆー表現があるよという情報を頂いた。トラックバックもいろいろ拝見した。コメント欄に自分は40代、50代と多くの人が名乗ってくれたのは本当に嬉しかった。

IT産業にいるとどもせっかちでいけない。書いているおじさんもいる*1。漫画で教えてもらった。書いているおじさんは、書いていない人の気持ちなんかわからない。当事者じゃないから。そりゃそうである。わたしも書いているおじさんだから、実のところ書いていない人の気持ちはよくわからない。当事者じゃない人間がわかったふりをして書くのは危険だと思った。表現している人が1/100だったら、日本には約120万人の表現する人がいるのかな?少なくはないけど、大学のクラスは50人くらいだったので、わたし一人というのはうーん、ちょっと孤独だ。せめて数人くらいはいてもいいと思った。

中年のブログ -- 横浜逍遙亭*2、『僕は梅田望夫さんの言う「総表現社会」は程度の問題をすっ飛ばして言えばすでに十分に実現されているし、控えめに語るにしても現在進行形で実現されつつあるという実感を強く持っており、hyoshikさんが「思いのほか進んでない」とお書きになっていることについては、その流れを加速したいという善意の問題提起なのだろうと読ませて頂いた』。なるほど、ちょっとせっかちな自分がいるような気がする。

インターネットの特性として、年齢、職業、性別、人種などなど様々な属性から独立して情報をやりとりをしている。そのため、表現している人がいたとしても受け手であるわれわれはその発信者が40代、50代ということを知るすべがない。それはそのとおりであるし、もちろんいい面もある。

ブログでの表現は少ないが仕事やその他で表現しているというコメントを頂くが、もちろんそのとおりである。別にブログにしか表現方法がないわけではない。趣味の世界での表現もあるかとは思うが、人生の1/3は仕事で出来ているのだから、実名で自分のポジションを明確にした上で、プロフェッショナルな境地を語って欲しいという願望である。そのような表現を読みたいのである。

また、いくつかの例外的なブロガーを上げてくれた人が複数いたけど、わたしには特異点にしか見えなかった。やはり1/100の世界なのではないかと。

その感覚はBだ。表現している人は実感として少ない。おごちゃんが『同志達よ、おまえらどこに消えた?』で表現してくれた。

インターネットがヒマ人かおばかな人の集まりだと言う人がいる。忙しくて頭のいい人はインターネットで表現するわけがない。そのようなインセンティブがまったくないし、そのような空間に関わっている時間的な余裕はない、だから表現している人がほとんどいない。

もちろん、わたしがおばかでヒマ人なのは、そーなので、ほっといて欲しいと思うのだが、それでも、インターネットで表現することの素晴らしさにいくばくかのメリットを享受しているし、それについて常日頃アピールしたいと思っている。しかしそのメリットを感じていない人に無理やり表現させようとしてもできるわけがない。所詮表現なんていうのは止むに止まれぬものがあってこそ表現なのだから。

時間がないというのであれば、定年退職後の諸先輩方に期待をする。大人の言葉を読みたい。

やっぱり、同世代の人には、お願いするしかない。わたしはあなたの表現を読みたいと。梅田望夫だけじゃあつまらないじゃないか。

*1:目指せ1/100! "中年のおっさんのブログ" http://d.hatena.ne.jp/segawabiki/20090519/1242744595

*2:中年のブログ -- 横浜逍遙亭 http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20090520/p1

クラウドにはぐっとこないけど、BASEやCAP定理は面白い

実のところ昨今のクラウド狂想曲にはうんざりしている口なので、クラウドってなによ、全然ぐっとこない*1

政治レイヤーで言えば、補正予算の関係からか霞ヶ関の人たちがクラウドとグリーンでいろいろ作文をして、あーだこーだしているのが、悪乗りというか、そんなんで日本の国際競争力とか産業の競争力というか、あるいは行政の簡素化とかできるのだろうか、という疑問。単に大規模なデーターセンターを作って、マスコミが批判する箱物というか土木公共事業とどう違うのか。そんなもの大金投じて作ってもすぐ陳腐化するだろう、ぷんぷん。

未来への投資という観点ではないのがちょっとうんざり。

と罵詈雑言はおいておいて、技術的な目新しさがあるのかないのかという観点で言えば昔のCISCに対するRISCのアプローチみたいでとっても面白い。

すなわち、ACIDからBASEへの流れ。そしてCAP定理。

データベースとかトランザクション処理の教科書をひらけば、ACIDというのが大事だと書いてある。

  • Atomicity(原子性)
  • Consistency(一貫性)
  • Isolation(独立性)
  • Durability(永続性)

RDBMSスクールの卒業生から言えば、これは常識中の常識。基礎中の基礎。オールオアナッシングの世界である。トランザクションは上手くいくか、上手くいかないか。それ以外ありえない。状態は常に一貫しているし、一度コミットされたものは永続し、消えてなくなることはない。この原理原則をどう実装するかというのがトランザクション処理の研究開発そのものであった。IBMの研究所でJim Grayらが唱えたころからの歴史である。

ところが、昨今のWebアプリケーションの世界では、BASEというACIDではない原理原則が支配している。ACIDの代替としてのBASEである。BASEとは

  • Basically Available
  • Soft State
  • Eventually Consistent

まあ、大体動いていて、状態を持ち、厳密な一貫性ではなくゆるい一貫性を持つ*2。ま、一貫性はいつの日か達成できればいいんじゃね。くらいののりである。例えば、銀行のトランザクションはACIDの世界が絶対必要だ、そりゃそうだ、自分のお金が大体あっていればいいなんて話は受け入れられない。だけど、日記を書いて、それのトラックバックのアップデートが若干遅れて反映されるようなシステムでも、まあ、困らない。BASEでいいんじゃね。という感じである。

CAP定理というのは、

  • Consistency
  • Availability
  • Partitions

という状態の2つまでしか達成できない。3つすべてを達成することはできないという定理である。例えばConsistency(一貫性)とAvailability(可用性)を同時に満足させるとPartitions(分散)を達成するのをあきらめるしかない。可用性と分散性を同時に満足させるにはConsistency(一貫性)をあきらめる。すなわちEventually Consistentな状態を受け入れる。

そーゆー状態を受け入れるとスケーラビリティを達成できるようになるので、巨大なデータセンターの中に安いPCサーバーを大量においてCAPのCを若干犠牲にしつつ、高速なデータ処理を行う。そのような計算モデルである。

クラウド時代の計算パラダイムRDBMSが30年間研究開発していたACIDパラダイムからCAPパラダイムへ大きく舵を切ったという意味で面白い。ちょうどコンピュータアーキテクチャにおける、CISCパラダイムからRISCパラダイムへ変遷していったようなイメージと重なる。

スケーラビリティのために、何かをちょっと犠牲にするというイメージである。

もう一つの重要なデータモデル(?)であるKey Value Storeについてはまたの機会に。

下記の教科書は必読の書。