無知を楽しむ
難しい本の読書会をやっていて、ウンウン唸りながらわからないなあ〜と思う。
「ゲーデル、エッシャー、バッハ」を読んでいるのだけど、未だに深い森をさまよっているような気分で果たして見晴らしの良いところにたどり着けるのだろうかと時々不安になる。
今日の読書会に、白石さんのご紹介で「敷き詰め」が好きで好きでしょうがない、日本テセレーションデザイン協会代表の荒木さんに来ていただき、GEBとの出会いとかエッシャーやテセレーションの話を伺った。*1
空間を同じの模様で敷き詰める。小学校の算数にも出てくるそうだ。算数にも美意識を導入するらしい。
図の部分と地の部分
絵は図の部分で成り立っているのではなくて地の部分があるから図が引き立つ。何かを知るということは、その地の部分も知ることになる。ああ、こんなことも知らなかったのかということを知る。無知の知だ。
現代社会では無知は罪悪だ。我々は自分の無知を隠そうとする。知ったかぶりをする。バズワードを消費してわかったつもりになる。無知に対して無自覚だ。
エッシャーの絵に魅了された人がここにいた。なぜだかわからないけどエッシャーが好きだ。そーゆー人が世界中にいるらしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/マウリッツ・エッシャー
エッシャーの生誕100周年を記念して集まった人たちが、Bridgesという団体を作って、毎年カンファレンスを開催している。今年もストックホルムで開催するらしい。
世の中にはなんだかよくわからないけど、なんだかよくわからないものに熱中して、なんだかよくわからない熱量で楽しんでいる人がいる。なんだかよくわからないことの代表が「数学」のような気がするけど、「数学」の周辺には広大で肥沃な大地があって、その周縁を散歩してみたい気がする。
知らないことを知るのは楽しい。自分が全く知らないことを自覚するのが楽しい。
本能を言語化することは難しい。数学を楽しみたいと思う心はどこか本能に基づいているのかもしれないが、よくわからない。
自分の無知を知る。そのこと自体が楽しい。無知を楽しんでいる。図を楽しむだけではなく、地の部分も楽しむ。だんだん地の部分を楽しむこともできるようになってきたような気がする。