未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

ネットの言論ってなんだろう

日々、この日記で、どーでもよいヨタ話を書き散らしているわけだけど、まあ、それは置いておく。プロのジャーナリストが、時間とカネを使って書いた、プロ原稿と、アマチュアが自分の時間と自分のカネを使って書いたアマチュア原稿と、どちらに軍配があがるか、とかソーユー話でもない。

書くことの難しさ ネットの言論はなぜ質が低いか http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMIT11000026032009
新聞に比べるとネット言論の質は低い――。もはや一部の新聞社幹部や研究者ぐらいしか言いそうもないことをあえて指摘してみたい。ブログやSNSに代表されるソーシャルメディアの登場によって誰もが情報を発信できるようになり、ネット上のコンテンツは膨大になった。だが、その質はネットユーザーが批判する既存メディアにとうてい及ばない現実もある。メディアを持つことで満足するフェーズはそろそろ終わりにして、質を上げる取り組みについて議論すべきではないか。

日記とかブログはカネを儲けるために書いているわけではない。それによって生活費の足しにしようとして書いているわけではない。その意味でわたしはアマチュアである。時々、ウェブ連載や、原稿を依頼されて書くこともあるが、原稿料を貰ったとしても、それが主たる収入ではないので、アマチュアであることにはかわりはない。

では、アマチュアの書くことにまるで意味がないかというと(そんな事は誰も言っていないけど)、もちろんそんなことはない。どんな書きものにチカラがあるか、それは何か。

自分とその周辺のことだと思う。

人生の三分の一は仕事をして、三分の一は寝て、三分の一は、その他にあてるとする。仕事の事というのは、その人の人生の少なくとも、三分の一の成分でできていて、うまくいくこともうまくいかないことも、成功も失敗もいっぱいあると思う。そして、その成果に世界で一番興味を持っているのは自分だし、それに世界で一番つきあっているのも自分だし、一番愛しているのも自分だし、ひょっとしたら世界で一番憎んでいるのも自分だ。

ドキュメンタリーで長期密着取材なんてので、日常生活やらなにやら、成功した人のプロジェクトを紹介したりする企画があるが、自分で自分のストーリーを取材すれば、長期密着どころではない裏も表も全て知りつくしたモノができあがる。

そのプロジェクトの裏も表も全て知りつくした自分が自分の言葉で書く。世界で一番愛のこもった言葉で書く。世界で最もそれにコミットしている人が書くストーリーは、その人にしか書けない。どんなジャーナリストをつれてこようが、一次情報としての自分という素材を、ナマで表現する自分には勝てるわけがない。

自分の内面の言葉を聞けるのは自分しかいない。他人にはウソを言っても、自分の心を騙すことは難しい。

一体、おもしろおかしくもない、そんな自分のストーリーを誰が読むのか、とあなたは言うかもしれない。いいじゃないか、例え、世界中の誰も読まないとしても、そのストーリーに興味を持つ人が世界でたった三人だったとしても、誰かが、未来のいつか、あなたのストーリーを発見し、涙を流すかもしれないし、心を癒されるかもしれない。そんな瞬間がくればもうけものではないか。そして、わたしは知っている。世界に三人いるその一人が、未来の自分なのである。

自分にしか語りえない一次情報を発信しよう。わたしは、わたしにしか書けない物語を書き続けたい。そして、わたしは、あなたの物語を読みたい。強くそう思う。