未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

オン・ザ・ロード (河出文庫)、ジャック・ケルアック著、青山南訳、読了、濫読日記風 2018、その57

オン・ザ・ロード (河出文庫)を読んだ。

アメリカのロードムービーだ。

主人公は、酒を飲んで、セックスをして、旅をする。時代は第二次世界大戦後。

本書を読んで米国を車で横断したいと思った。東海岸から西海岸まで行って、またぐるっと東海岸に戻ってくる。特に目的もなく全米を往復する。そんな旅をしてみたい。


濫読日記風 2018

天才 (幻冬舎文庫)、石原慎太郎著、読了、濫読日記風 2018、その56

天才 (幻冬舎文庫)を読んだ。

若い人は田中角栄も政治家としての石原慎太郎も知らないことだろう。田中角栄金権政治を真正面から批判したのが石原慎太郎だと言ってもピンとこないに違いない。ましてや芥川賞作家だ。

その石原慎太郎が宿敵田中角栄を一人称で描いた。面白かった。

政治なんかにうつつを抜かさずにずっと小説を書いていればもっと面白い作品をものにしたのではないかと思わなくもない。




濫読日記風 2018

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)、平田オリザ著、読了、濫読日記風 2018、その55


わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)を読んだ。

実は随分前に平田オリザさんの講演を聞く機会があって、その時に本書を読んでいた。*1

本書は「コミュニケーション能力とは何か」とサブタイトルにあるように、コミュニケーション能力というふわっとした問題を扱っている。

自分にとっての衝撃は137ページにあった「列車の中で話しかける」というエピソードである。

平田さんは演劇のワークショップを日本各地で開催している。その教材の一つに「列車の中で他人に声を掛ける」というスキットがある。
列車の中、四人がけのボックス席で、AとBという知り合いの二人が向かい合って会話をしている。そこに、他人のCがやってきて、「ここ、よろしいですか?」といった席の譲り合いのやりとりがあり、Aさんが「旅行ですか?」と声をかけ、世間話が始まるところまでがスキットになっている。
一見、なんの変哲も無い台本だが、いざ、これを高校生などにやらせてみると存外うまくいかない。(略)そこで高校生に「どうして、これが難しいのかな?」と聞いてみると、「初めてあった人と話したことがないから」というのだ。(略)日本の中高年の男性には、席の決まった宴会ならいいけれどもカクテルパーティーは苦手という人が結構いる。(略)あぁ、みんな結構人に話しかけるのは苦手なんだなということに気がついて、(略)以下の質問をするようになった。「列車や飛行機で他人と乗り合わせたときに、自分から声をかけますか?」(略)(137ページ〜139ページ)

あぁ、自分も確かに昔は知らない人に声をかけていた、だけど最近はめっきり声をかけなくなった。雑談力がとみに低下している。どうでもいい話をしていない、そのスキルがどんどん低下している。

ドストエフスキーの白痴の最初のシーンは主人公が列車で居合わせた人たちと世間話をすることから始まる。このシーンはもはや現代の若者やおじさんたちにはリアリティのある設定ではなくなってしまったのか。

いやはや。

本書を読んで以来、知らない人と世間話をするというのが自分の課題になっているのだが、なかなか敷居が高い。(誰も信じてくれないけれど人見知りである)



濫読日記風 2018

歴史の進歩とはなにか (岩波新書 青版 800)、市井三郎著、読了、濫読日記風 2018、その54


歴史の進歩とはなにか (岩波新書 青版 800)を読んだ。

歴史とは何か (岩波新書)、E.H.カー著、清水幾太郎訳、読了、濫読日記風 2018、その52 - 未来のいつか/hyoshiokの日記で「歴史とは何か (岩波新書)」を読んだのだけど、歴史観の名著の一つが本書だ。

「歴史とは何か」がイギリスの歴史家によって書かれたものなので、西洋史観であり、本書は日本の哲学者によって書かれたものなので東洋史観である。

自分にとっては本書の採用する「史観」により納得感を得た。

「歴史とは何か」が1960年前後の時代を反映しているように、本書は1970年前後の時代を反映している。すなわち前者は第二次大戦後であり、後者は戦後20年以上経った高度成長の時代であり、世界は東西冷戦で、米国はベトナム戦争の泥沼にはまっていた。

世界史が西欧の力による征服の歴史であることを本書は繰り返し指摘する。「ヨーロッパの諸民族が他の土地に訪問する場合(彼らにとっての訪問は略奪と同一のことである)、彼らの示す不正は恐るべき程度に及んでいる」(カント「永遠平和の為に」)(39ページ)

本書が引用している様々な哲学書や古典を読んでみたいと思った。


濫読日記風 2018

情報の文明学 (中公文庫)、梅棹忠夫著、読了、濫読日記風 2018、その53

知的生産の技術 (岩波新書)を読んだところ、知人に「情報の文明学 (中公文庫)」をお勧めされて読んだ。*1

一つの本を読むと、そこから本の輪が広がる。いい感じだ。

「情報の文明学」は梅棹の論文・エッセイ集になっている。その中の一つ1963年頃に書かれた「情報産業論」がすごい。今読んでもその先駆性に痺れる。「なんらかの情報を組織的に提供する産業を情報産業とよぶ」(39ページ)という定義で産業論を語っている。

「産業の大まかな分類には、C・G・クラークによる三分類がしばしばもちいられる。すなわち、第一次産業農林水産業)、第二次産業(鉱工業)、第三次産業(商業、運輸業、サービス業)という分類である。これによると、われわれのいうところの情報産業などは、その先駆的諸形態も全てひっくるめて、サービス業に属し、商業などとともに第三次産業に属することになる。わたしはしかし、これは少しおかしくはないかとおもうのである。」(44ページ)

梅棹は「情報産業」は従来の分類の第三次産業には属さないと考えている。従来の第二次産業の生産物などを売ったりサービスするのが第三次産業に属するもので、「情報産業」は全く新しい産業であるとしている。情報産業が扱うものは「モノ」ではない。モノを扱う「実業」に対して「虚業」という観念を繰り出した。数学における虚数の発見に似ている(50ページ)

梅棹の論考は今なお新鮮で示唆に富む。ぜひ、原文に当たって味わって欲しい。

21世紀は情報産業の時代だ。

工業的生産の価値観とは全く異なる価値観が必要なのが情報産業である。

一読をお勧めする。


濫読日記風 2018

歴史とは何か (岩波新書)、E.H.カー著、清水幾太郎訳、読了、濫読日記風 2018、その52

歴史とは何か (岩波新書)を読んだ。

岩波書店の「図書」の臨時増刊で「はじめての新書」という岩波新書創刊80年記念号の中に本書を見つけた。多くの人が推薦している。この「はじめての新書」は積読製造器だ。というか岩波新書は読みたい本の宝庫だ。なんでこんなに読みたい本があるんだろうか、恐ろしい新書の塊である。

「歴史とは現在と過去との対話である。現在に生きる私たちは、過去を主体的にとらえることなしに未来への展望を立てることはできない」

「1961年の1月から3月にかけて、E・H・カーは、ケンブリッジ大学で『歴史とは何か』と題する連続公演を行い、同年秋、これを書物として出版した。この岩波新書『歴史とは何か』は、その全訳である」(はしがき)

過去を見る新しい眼が求められている。

自分にとっての「歴史」というのは過去にあった事をその年代とともに覚えるという中学生的な歴史観である。典型的な暗記物科目であって、正直あまり興味のない分野であった。

本書はそのような幼稚な歴史観を覆す。幾ら何でもいい年をした大人が中二的歴史観を持つのはやめたほうがいい。という事を痛切に認識した。恥ずかしい。

本書は丁寧に「歴史的事実とは何か」をとく。

私たちが知っている歴史は、その歴史を記した人々が選んだ重要な事項を恣意的に記述したものである。征服者の視点であって「奴隷」の視点ではない。奴隷がどのような生活をしていたか我々はほとんど知らない。(12ページ)

カーは「歴史とは何か」に対する答えとして「歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間につきることを知らぬ対話なのであります」(40ページ)とする。

欧米人が記した歴史書を今読んでみると、その史観はまさに征服者の視点であることに気がつく。その前提を疑う歴史観に触れるとそこに新しさを見出したりする。

自分にとっての本書の意義は、そのような歴史に対する視点をもたらしてくれたことである。おすすめだ。



濫読日記風 2018

ソロー『森の生活』を漫画で読む、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(原作)、ジョン・ポーセリノ(編・絵)、金原瑞人訳、読了、濫読日記風 2018、その51

ソロー『森の生活』を漫画で読むを読んだ。

ソローの「森の生活」が長いこと積読になっていて、本屋で本書を見つけて即購入。漫画で読む系の本は小難しい古典をお気楽に読むというコンセプトで受けている。

ソローの作品は上下二巻なのでそこそこ分量がある。旅に出たときにでもゆっくり読んでみたいと思った。


濫読日記風 2018