未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

遅刻してくれて、ありがとう(上、下) 常識が通じない時代の生き方、トーマス・フリードマン著、伏見威蕃訳、読了、濫読日記風 2018、その59

遅刻してくれて、ありがとう(上) 常識が通じない時代の生き方遅刻してくれて、ありがとう(下) 常識が通じない時代の生き方を読んだ。

タイトルがいい。「遅刻してくれてありがとう」

著者はフラット化する世界 [増補改訂版] (上)フラット化する世界 [増補改訂版] (下)トーマス・フリードマンだ。

世界は幾何級数的に変化している。ムーアの法則を我々は知っている。半導体の集積度が18ヶ月で倍になるというアレだ。

変化がとてつもない勢いで加速している。我々はどんどん忙しくなってきている。

待ち合わせで時々相手が遅れることがある。10分、15分、相手はかならず慌てていて、座ると同時に謝る。「地下鉄のレッド・ラインが遅れて………」、「目覚まし時計が故障して………」。ある時、相手の遅刻がちっとも気にならないことに、ふと気づいて、私(フリードマン)は行った。「いや、やめてくれ、謝らないでほしい。それどころか、遅刻してくれて、ありがとう」(15ページ)

遅刻した相手をイライラして待つのではなく、自分のための時間を作ることができたとフリードマンは言う。じっと考える時間が見つかった。

冒頭のエピソードが面白い。「遅刻してくれてありがとう」。そんな時代に私たちは生きている。

変化は加速している。2007年に何が起きたのか、ムーアの法則、スーパーノバ、市場、母なる自然。

変化をすることが前提になる社会で生きている。変化に対応するために学び続けないといけない。仕事も組織も変化していく。

ヒントに満ちた良書だった。

濫読日記風 2018

RISC-V原典 オープンアーキテクチャのススメ、デイビッド・パターソン&アンドリュー・ウォーターマン著、成田光彰訳、読了、濫読日記風 2018、その58

RISC-V原典 オープンアーキテクチャのススメを読んだ。

RISC-Vは全くもって門外漢なのだが、本書はとても読みやすかった。久しぶりに未知のアーキテクチャーの参考書を読んだ。

著者らによるRISC-Vの入門書は以下になる。「Computer Organization and Design RISC-V Edition: The Hardware Software Interface (The Morgan Kaufmann Series in Computer Architecture and Design) (English Edition)」。日本語訳はまだ出ていない。勢いでこちらの書籍も購入してしまった。

RISC-VはRISCの提唱者のパターソンらが数々の商用アーキテクチャを研究し尽くし、その問題点を解決したアーキテクチャである。

1章でRISC-V開発の動機を語っている。IntelX86アーキテクチャに代表されるものは、過去の互換性に縛られたインクリメンタルISA(Instruction Set Architecture)方式によって開発された。新しいプロセッサを開発する際には拡張した部分の新しいISAだけではなく、過去のすべての拡張も実装しなければならない。(4ページ)

x86は1978年に登場した時に80命令だったのが、時と共に命令数は増大し、2015年には1338命令になっている。(図1.2 x86命令数の推移、3ページ)

ISAマニュアルのページ数もRISC-Vに比較して10倍以上である。(13ページ)

ISA ページ数 語数 読むのに必要な時間
RISC-V 236 76,702 6
ARM-32 2736 895,032 79
x86-32 2198 2,186,259 182

RISC-Vは過去のアーキテクチャー設計者がおかした様々な誤りを直したものということになっている。有名なところでは、分岐における遅延スロットは採用していない。

RISC-Vの仕様はオープンソースなので自由に利用できる。RiSC-VがLinuxのように広く普及するかどうかは未知数ではあるが、ハードウェアの分野でこのような試みがなされることは興味深い。

本書の分量は200ページほどで、その設計思想などをわかりやすく記述しているので、マニュアルを読む前段階として、気楽に読める。

本書とともに、マニュアルと前述の入門書「Computer Organization and Design RISC-V Edition」を押さえておけば、RISC-Vの概要の理解は十分得られる。

参考文献なども十分載っているので、楽しみながらコンピュータアーキテクチャについて学べる良書だ。オススメである。


濫読日記風 2018

オン・ザ・ロード (河出文庫)、ジャック・ケルアック著、青山南訳、読了、濫読日記風 2018、その57

オン・ザ・ロード (河出文庫)を読んだ。

アメリカのロードムービーだ。

主人公は、酒を飲んで、セックスをして、旅をする。時代は第二次世界大戦後。

本書を読んで米国を車で横断したいと思った。東海岸から西海岸まで行って、またぐるっと東海岸に戻ってくる。特に目的もなく全米を往復する。そんな旅をしてみたい。


濫読日記風 2018

天才 (幻冬舎文庫)、石原慎太郎著、読了、濫読日記風 2018、その56

天才 (幻冬舎文庫)を読んだ。

若い人は田中角栄も政治家としての石原慎太郎も知らないことだろう。田中角栄金権政治を真正面から批判したのが石原慎太郎だと言ってもピンとこないに違いない。ましてや芥川賞作家だ。

その石原慎太郎が宿敵田中角栄を一人称で描いた。面白かった。

政治なんかにうつつを抜かさずにずっと小説を書いていればもっと面白い作品をものにしたのではないかと思わなくもない。




濫読日記風 2018

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)、平田オリザ著、読了、濫読日記風 2018、その55


わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)を読んだ。

実は随分前に平田オリザさんの講演を聞く機会があって、その時に本書を読んでいた。*1

本書は「コミュニケーション能力とは何か」とサブタイトルにあるように、コミュニケーション能力というふわっとした問題を扱っている。

自分にとっての衝撃は137ページにあった「列車の中で話しかける」というエピソードである。

平田さんは演劇のワークショップを日本各地で開催している。その教材の一つに「列車の中で他人に声を掛ける」というスキットがある。
列車の中、四人がけのボックス席で、AとBという知り合いの二人が向かい合って会話をしている。そこに、他人のCがやってきて、「ここ、よろしいですか?」といった席の譲り合いのやりとりがあり、Aさんが「旅行ですか?」と声をかけ、世間話が始まるところまでがスキットになっている。
一見、なんの変哲も無い台本だが、いざ、これを高校生などにやらせてみると存外うまくいかない。(略)そこで高校生に「どうして、これが難しいのかな?」と聞いてみると、「初めてあった人と話したことがないから」というのだ。(略)日本の中高年の男性には、席の決まった宴会ならいいけれどもカクテルパーティーは苦手という人が結構いる。(略)あぁ、みんな結構人に話しかけるのは苦手なんだなということに気がついて、(略)以下の質問をするようになった。「列車や飛行機で他人と乗り合わせたときに、自分から声をかけますか?」(略)(137ページ〜139ページ)

あぁ、自分も確かに昔は知らない人に声をかけていた、だけど最近はめっきり声をかけなくなった。雑談力がとみに低下している。どうでもいい話をしていない、そのスキルがどんどん低下している。

ドストエフスキーの白痴の最初のシーンは主人公が列車で居合わせた人たちと世間話をすることから始まる。このシーンはもはや現代の若者やおじさんたちにはリアリティのある設定ではなくなってしまったのか。

いやはや。

本書を読んで以来、知らない人と世間話をするというのが自分の課題になっているのだが、なかなか敷居が高い。(誰も信じてくれないけれど人見知りである)



濫読日記風 2018

歴史の進歩とはなにか (岩波新書 青版 800)、市井三郎著、読了、濫読日記風 2018、その54


歴史の進歩とはなにか (岩波新書 青版 800)を読んだ。

歴史とは何か (岩波新書)、E.H.カー著、清水幾太郎訳、読了、濫読日記風 2018、その52 - 未来のいつか/hyoshiokの日記で「歴史とは何か (岩波新書)」を読んだのだけど、歴史観の名著の一つが本書だ。

「歴史とは何か」がイギリスの歴史家によって書かれたものなので、西洋史観であり、本書は日本の哲学者によって書かれたものなので東洋史観である。

自分にとっては本書の採用する「史観」により納得感を得た。

「歴史とは何か」が1960年前後の時代を反映しているように、本書は1970年前後の時代を反映している。すなわち前者は第二次大戦後であり、後者は戦後20年以上経った高度成長の時代であり、世界は東西冷戦で、米国はベトナム戦争の泥沼にはまっていた。

世界史が西欧の力による征服の歴史であることを本書は繰り返し指摘する。「ヨーロッパの諸民族が他の土地に訪問する場合(彼らにとっての訪問は略奪と同一のことである)、彼らの示す不正は恐るべき程度に及んでいる」(カント「永遠平和の為に」)(39ページ)

本書が引用している様々な哲学書や古典を読んでみたいと思った。


濫読日記風 2018

情報の文明学 (中公文庫)、梅棹忠夫著、読了、濫読日記風 2018、その53

知的生産の技術 (岩波新書)を読んだところ、知人に「情報の文明学 (中公文庫)」をお勧めされて読んだ。*1

一つの本を読むと、そこから本の輪が広がる。いい感じだ。

「情報の文明学」は梅棹の論文・エッセイ集になっている。その中の一つ1963年頃に書かれた「情報産業論」がすごい。今読んでもその先駆性に痺れる。「なんらかの情報を組織的に提供する産業を情報産業とよぶ」(39ページ)という定義で産業論を語っている。

「産業の大まかな分類には、C・G・クラークによる三分類がしばしばもちいられる。すなわち、第一次産業農林水産業)、第二次産業(鉱工業)、第三次産業(商業、運輸業、サービス業)という分類である。これによると、われわれのいうところの情報産業などは、その先駆的諸形態も全てひっくるめて、サービス業に属し、商業などとともに第三次産業に属することになる。わたしはしかし、これは少しおかしくはないかとおもうのである。」(44ページ)

梅棹は「情報産業」は従来の分類の第三次産業には属さないと考えている。従来の第二次産業の生産物などを売ったりサービスするのが第三次産業に属するもので、「情報産業」は全く新しい産業であるとしている。情報産業が扱うものは「モノ」ではない。モノを扱う「実業」に対して「虚業」という観念を繰り出した。数学における虚数の発見に似ている(50ページ)

梅棹の論考は今なお新鮮で示唆に富む。ぜひ、原文に当たって味わって欲しい。

21世紀は情報産業の時代だ。

工業的生産の価値観とは全く異なる価値観が必要なのが情報産業である。

一読をお勧めする。


濫読日記風 2018