未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

あたりまえという状態を作ること

テレビの片隅にアナログという表示がでるとかでないとかで話題になっている。昔々子供のころカラー放送の場合、カラーとかいう表示が出たというのを思いだす。いつのころかカラーテレビがあたりまえになったころに、そのカラーという表示はTV番組からなくなった。そんなことを経験で知っているのは、50前後の世代以降だろう。

そのうちアナログ放送がなくなれば、その表示もなくなる。いまあるパソコンというあたりまえの物も、それを産業として作りあげた企業や多くの人々の努力によってできあがった。無から生じたわけではなく、あたりまえの物を作った多くの人々がそこにいたわけだ。

わたしたちは、夥しいあたりまえのものに囲まれて生活をしているわけであるが、不思議な感じというか、すげーなと思ったりする。いつのまにか携帯があたりまえになったので、待合せのスタイルも随分変化したし、インターネットも低額かつ高速で自由に使えていろいろ便利なサービスもあたりまえだ。グーグルがない時代に、どーやって検索していたのだろう。乗り換え案内なしで、どーやって目的地まで最短最速でたどりついたのだろう。だけど、そのあたりまえのものを作った人々が絶対いる。

外資系のコンピュータベンダーに就職して、最初にやったプロジェクトがソフトウェアの日本語化だった。当時はUnicodeもなかったし、統一的な多言語文字コードなんてものはなかった。もちろん、ソフトウェアの国際化などという概念すら十分理解されてはいなかった。いろいろな試行錯誤をくりかえし、徐々にソフトウェアの国際化というのをあたりまえにしていったのが、この20数年間だと思う。

10年前Netscapeソースコードを公開して、オープンソースという概念をマーケティングして、それをあたりまえにしたのも、多くの人々がそれを推進していったからだと思う。そのお先棒をかついだのかかつがなかったのかは、わからないが、今ではすっかりオープンソースはあたりまえのものになっている。

カーネル読書会という奇妙な勉強会みたいなものを細々と続けているが、カーネル読書会に限らず、勉強会というのが、あたりまえの社会になった。当事者として実感する。

勉強会があたりまえの社会の方が、そうでない社会より遥かに素敵だと思う。そのような社会をすくなくともわたしは求めていた。

今はまだあたりまえじゃないことを次の10年あたりまえにしていく。それがわれわれ自身の成長そのものなのかなあ、なんてことを思ったりした。

なぜ、わたしはhyoshiok というIDを使っているのか

ローマ字読みをするとid:hyoshiokは、「ひょしおk」最後のkのおさまりが非常に悪い。kは、「けー」と読むのだろうか。そーすると「ひょし おけー」か。などどhyoshiokというidを初めて見た人は、その謎のidに違和感を持つのではないだろうか。わたしもかつては持った。時々hyoshiokaと間違える人もいる。最後に母音aを付加して、ローマ字読みしやすくする。「ひょしおか」。一応、わたしの、本名は「よしおか」なので、最初のhの存在が微妙に謎だが、「ょしおか」と読めなくもない。ファーストネームが「ひろたか」なので、そこから頭文字(h)を取ったのだろうと想像できなくもない。それならそうとh-yoshiokaとしてくれれば一目瞭然なのに、などと思ったりもする。実は、某社に転職した時、メールアドレスを貰ったのだが、そのメールシステムはなぜかUnixを利用していて、そのアカウント名は最大8文字という制限があって、名前の頭文字(1文字)+苗字というネーミングコンベンションだったのである。「hyoshiok」というのは、まさにそのような時代の産物で、8文字という文字長の制限がないのならhirotaka.yoshiokaみたいな無味乾燥なidになったと思う。偶然の産物であるが、8文字のおかげで、hyoshiokというおちゃめなidが得られたのである。
当初は、なんだかなー、ダサイなーと思っていたが、長年付き合っているうちに愛着も沸くし、なによりも、idが他の人とかぶることがほとんどないという利点もある。hyoshiokで検索するとこの日記「未来のいつか/hyoshiokの日記」がトップに出てくるのでSEO的にもウレシい。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=hyoshiok&btnG=Google+検索&meta=lr%3D&aq=f
メールアドレスはhyoshiok at gmail.com みたいな感じである。励ましのお便りをお待ちしているぞっと。