未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

転職のきっかけ(続き)

1993年の秋の第一次希望退職は応募しなかった。応募する気もなかった。しかしその時入社以来ほとんど初めてと言っていいが自分の勤めている会社とその仕事について真剣に考えてみた。この会社を辞めたとしてわたしのやりたい仕事はどこにあるのか?ソフトウェアの国際化およびソフトウェア製品開発については一通りの経験を積んで来たので、おそらく外資系のソフトウェア専業ベンダーであればそこそこに仕事はこなせるだろうという自信はあった。第一次希望退職募集のメールが流れた日、会社のそばのコンビニの文房具コーナーからは履歴書がまったく無くなっていた。応募する気がないとかいいながらもとりあえづ定型の履歴書でも買うかとコンビニに立ち寄ったのだがまったくない。きれいさっぱり売り切れである。今から思えば日頃から転職の準備もしていなければ転職の事も考えていない自分が思い付きで退職し職を新たに見付けると言うのも相当無謀な事かと思う。その当時のわたしにはそのような準備も心構えもまったくなかった。そして希望退職の募集は、わたしにそのような事を考えるきっかけをくれた。それはわたしにとって非常に重要な経験でもあった。
1994年夏にデータベースチームは米国Oracleに売却された。当時の米国データベースチームの同僚、上司、友人知人は全員米国Oracle社員となった。
そしてその秋、日本DECは第2次の希望退職を募集した。約一年間、仕事のことなどを漠然と考えていたが、転職もおぼろげながら一つのイメージとしてあった。何か面白そうな仕事があれば転職するのもやぶさかではないという考えもあったし転職雑誌を丹念に読んでいたりもした。
迷いに迷った末、希望退職に応募することにした。そして日本オラクルの人事と面接をした。1994年10月である。
希望退職の場合、応募は直属の上司をバイパスして直接人事へメールを送る事によって成立する。基本的には直属の上司に拒否権はない。慰留もできない。そして会社都合の退職となる。機械的に退職予定日が決定される。それまでに引き継ぎを行う。突然人員が減るのだから多くの場合プロジェクト等に影響がでる。士気にも影響する。出るも地獄、残るも地獄の状況がある。
会社がいやになって辞めるわけではない。自分の愛していた製品とそのグループが売却されてしまったのである。わたしの選択肢は、会社に残って他の仕事を探すか、外にでて自分の専門性を生かした仕事を探すか?どちらのほうが自分の満足度が高いか?どちらのほうがその満足度をより高い確率で達成できそうか?
会社にはもちろん愛着があった。エンジニアリング部門のコミュニティへの帰属意識もあった。そしてそれが断ち切られるような思いもあった。喜び勇んで辞めるわけではない。しかし最終的には退職する道を選んだ。
最終出社日まではあっと言う間であった。資料を整理し、メールを整理し、ファイルを整理した。私企業が持つ世界最大のコンピュータネットワークをDECは持っていたが、それにもうアクセスできないと思うとそれだけは残念であった。1993年というのははX MosaicというWebブラウザーが登場し日本でもべっこうあめやrimnetなど個人向けインターネットプロバイダーがビジネスをはじめた時期である。niftyがインターネットのメールのゲートウェイの実験をはじめたのもそのころである。会社をやめるにあたってrimnetに入りインターネットへのアクセスを確保した。わたしにとってはインターネットはDEC時代の友人、同僚とコネクトするメディアであった。インターネットの存在のおかげでDECの卒業の孤独感は随分和らいだのはたしかであった。
最終出社日はたしか1994年11月20日だったと思う。そして1994年12月1日に日本オラクルに入社した。