シニアプログラマ
毎週金曜日はコンソーシアムの定例進捗会議である。今日は別件があって早退した。その後暑気払いの宴会があったので、別件が終わってからまた合流することにした。宴会というと何はおいても参加しようとするそのエネルギーはいったいどこからでてくるのか?実は宴会でもっとも重要な事が議論されるという宴会の法則というのがあって、それがために会議は中座しても宴会だけはでなくてはいけないのである。
それはともかく適度にへべれけになりながらよた話をかわすわけだが、定年退職したシニアなプログラマを集めて老人ホームを作ったらどーだという話になる。日本の大企業は35歳前後から偉くなるとコードを書かなくなる。書くことを許されなくなる。これからあぶらが乗り切ってバリバリ仕事をこなすという時期になって現役を引退させられるようなものである。40歳前後のPM的な仕事をしている優秀な人は内心自分もコードを追っかけてみたいと思っていても組織がそのようなことをさせてくれない。
わたしは30代後半米国に行ってOracle8の開発に参加したのだが、毎日毎日コードを書く仕事をしていたわけであるが、彼の地では、30代40代のベテランプログラマがはいてすてるほどいる。10年選手、20年選手がごろごろいる。生きのいい若いプログラマもいれば、わたしがデータベースのトランザクションという「概念」を実装してきたんだという大御所中の大御所もいたりする。
考えてみれば、80年代から90年代わたしのやってきた仕事は「ソフトウェアの国際化」という概念を実装するという仕事だったわけで、彼の地にいるころはばりばりの10年選手だったわけだ。僭越ながらその分野の第一人者という自負はあった。DECでの、日本語化の経験、そしてそれをより一般化して、「国際化」という概念へ昇華していくプロセスは多くの企業の多くのエンジニアとの地域や企業を超えたコラボレーションであった。
日本語化は日本人にしかできないという思い上がった考えを持っている日本人も少なくなかったが、ソフトウェア国際化のパターン、ケーススタディを積み重ねていくうちに、徐々にそれは汎用的なソフトウェアが持つべき属性のようなものになっていった。
結局、国際化という属性を持つソフトウェア製品が世界を席巻したわけである。日本語化というプロセスが一種の非関税障壁となっていたのが、それが、ソフトウェアの国際化によっていとも簡単に国境を飛び越えて日本という地域に入ってきた時代が90年代である。
その時、日本のソフトウェアベンダーの70年代、80年代に活躍した日本語処理の先駆者たちは何をしていたのだろうか?自社のソフトウェアを国際化して輸出することをどれだけの先輩たちが試みたのだろうか?
35歳で現役を引退するシステムでは常にベテラン中のベテランはいない。よくて経験数年のプログラマが10年選手20年選手を取り揃えたチームと世界の場で対戦しなくてはいけない。大リーグチームと草野球チームで勝負になるのか?なるわけはない。
組織として10年選手を活用できないのなら、一気に話をとばして、これから引退をしていく団塊の世代を先頭集団とするかつてのバリバリのプログラマを集めて彼らの経験を生かしてもらうというのはどうか。オープンソースのプログラマとして現役に復帰してもらうのである。
若い人たちは技術の変化が早すぎて年よりは使い物にならないと馬鹿にしているかもしれないが実はそんなことはないのである。OSの原理原則もRDBMSの原理原則もコンパイラ構成の原理原則もこの20年でどれだけの進歩変化技術革新があったのか?実はほとんどないといっても過言ではないくらい技術の流れは速くないのである。おいおい本当か?本当にそうなのか?
昔取った杵柄。おじさんプログラマの復権。少子高齢化へのアンチテーゼ。
年を取ることに対するネガティブなイメージから50代60代これからの人生を自分の経験とか技量を利用してボランティアとしてのプログラマとして悠々自適に過ごすという提案である。ボランティアといってもまったく無償である必要は全然ない。食うに困らない程度に稼げればいいという感じである。
開発基盤WG主査の鈴木さんのアイデアである。老後はプログラマ。楽しいではないか。愉快ではないか。一生一プログラマである。
日本という地域のプログラマの層の厚みを世界に見せ付けるいい機会だ。そのような仕組をもった社会は世界に尊敬される社会でもあると思う。