未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

東京の空

実家の近所で秋祭りをしていた。子供の頃は、秋祭りと言うと朝からそわそわしていて、お小遣いをもらって神社の境内の屋台で買い食いをして、町内会の子供神輿を担いだものである。

東京出身だと子供の頃にはもう空き地や原っぱというのがほとんどなくてアスファルトの道端でキャッチボールをしたり公園で三角ベースの野球をするくらいしかなかった。それでも「三丁目の夕日」のころは、わたしの実家の物干し台*1からは富士山が見えたし、近所のお寺に勝手に入って探検もしたりした。小学校にあがるころには地平線の向こうにはいくつもビルが建ってしまって、さすがに実家から富士山は見えなくなった。近所に大きなマンションが建ってそこの屋上からそれでも夕日に落ちる富士山が冬場にはくっきり見えることもあった。東京のスモッグがひどくなる頃だから*2天気がいいだけでは富士山が見えるとは限らなかった。

近所の米屋の息子、居酒屋の息子、旅館の息子が同級生でよくみんなで放課後に遊んだ。米屋には漫画がいっぱいあったので少年サンデーや少年マガジンをよく読まさせてもらった。*3

地方出身の人は東京ははじめからビルだらけの街だと思うかもしれないが、昭和30年代ころまでは平屋の家から富士山が見える位東京の空は広かったのである。その後どんどんビルを建って、それが日本の経済成長そのものだったわけだけど、それによって日本が豊かになり人々の暮らしがよくなっていったが、東京の空はどんどん狭くなっていった。

日本の成長に必要なためダムを作るということで村々がダムに沈む。それは日本という国が電力を確保するために必要な痛みであったと想像することはたやすい。小学校や村役場や郵便ポストがダムの下に沈んでいく。それが高度成長だったと人々は理解している。

東京という地域は今日も変化している。バブルの頃に地上げにあって更地になった土地にビルが建つ。実家の回りも、米屋もパン屋も駄菓子屋も八百屋もみんなマンションやらオフィスビルになった。幼稚園も廃園になった。

東京のダムに沈む街はコミュニティが破壊され、神輿を担ぐ子供はどんどんいなくなって、町内会はじじばばだけになりつつある。

神社に御神酒代を収めに行ったら旅館の息子のホリカワ君がいた。双方数秒みあって、「あれ〜ヨシオカ君?」、「おお、ホリカワ君かぁ」、元気か、元気元気、どうしている、相変わらずだよ、一気に何十年も前にタイムスリップする。彼の家はマンションになっているので、それの管理をしているらしい。づっと地元に住み続けている。PTAの会長をやっているらしい。

東京の空は狭い。ますます狭くなる。東京のダムに沈んでいる街にも人は住んでいる。幼馴染との再会は自分の帰属意識を再確認する機会になった。

*1:平屋でも屋根のあたりに物干しをする場所があったのである。

*2:60年代から70年代

*3:同級生のほとんどは近所の区立の中学に行ったのだがわたしは私立の中学に行ったので卒業以来ほとんど交流がないのがちょっと残念である。