未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

日本語が蘇るとき

旧聞に属することかもしれないが、梅田望夫が「日本語が亡びるとき」を絶賛し*1、そのはてなブックマークがプチ炎上したことがあった*2。わたしはベストセラーは読まないし、ましてや小飼弾が絶賛している*3書籍は意地でも読まないので(Debug Hacks書評ありがとうございます>弾さん)、わたしが何か言うべきものは持っていないのであるが、娘の本棚にそれを発見したので、こっそり読んでみた。(ありがとう>娘)

日本語。

たしかに<話し言葉>としての日本語は残るであろう。<書き言葉>としての日本語さえも残るであろう。だが<叡智を求める人>が真剣に読み書きする<書き言葉>としての日本語はどうか。

<叡智を求める人>が真剣に読み書きする書き言葉としての日本語が危機に瀕していると水村は言う。

普遍語としての英語の優位性は揺るぎないように思う。もはや勝負はついたようにさえわたしには思える。

文学はわからないが自然科学の分野では勝負は決まっている。自然科学などと言わなくても、わたしの土地勘のあるコンピュータサイエンスやソフトウェアエンジニアリングの分野において<叡智を求める人>の登竜門である博士論文はすべて英語で書かれている。研究者にとって、海外査読論文3本という形式的なハードルは研究者の質を担保する上で必要なことなのであろう。ひょっとしたら日本語論文でもOKという大学があるかもしれないが、堕落した姿だと思う。海外に発表もできないような研究をして何が博士だと思う。

わたしは博士号を持っていないので、それを取得するハードルがどの程度のものかは分からないが、自然科学の分野においては既に日本語は亡びている。

皮肉な事にわたし自身最近Debug Hacksという書籍を出版したが、できれば英語版を出版したいというのが僞ざる心境である。

一方で、わたしは日本という地域に<叡智を求める人>が数多いて、その層の厚み、質に関して皮膚感覚として確信を持つのであるが、彼らは発言をしない。インターネット時代において発言しない個人の存在は無である。

梅田が「ウェブ進化論」で期待したような、「総表現社会」は残念ながらまだ出現していない。<叡智を持つ人々>はいる。いるにも関わらず、日本語という領域においてそのような人々を発見することは、少なくともインターネットの界隈においては見出し得ていない。

梅田が期待したウェブ社会が日本語あるいは日本という地域において出現しえていないのはなぜなのか。その契機はあるのか、ないのか。それの出現を加速するような仕組みはありうるのかないのか。さらに言えば、日本語が亡びることに抵抗できるのか否か。

<叡智を持つ人>ですら書いていないという現実にどう向き合うのか。日本語は亡びるのではなく、既に亡びている。では日本語は蘇るのか。

ITにおけるビジネスを専門とする梅田が、世界で起こっている事をブログで紹介するという連載をかつてもっていた*4。英語で書かれた記事を日本語で解説するという行為はまさに水村の言う二重言語者である。梅田は自分の後ろに彼のような二重言語者が数多く現れることを期待したのではないか。しかしかつての彼のようなITの最先端を日本語に翻訳し日本語で発信し続けるブログは今日現在現れていない。

水谷は、日本語を亡ぼさないために日本語教育に力を入れるべきだと考える。異論はない、その通りだと思うが、自分にとって自分の身の丈にあった提案では残念ながらない。わたしは、国語学者でもなければ教育者でもないし、ましてや政治家でも文部科学大臣でもない。わたしが教育論をぶったところで何のリアリティもない。残念ながら。

では、日本語を蘇させるために何が自分はできるのか。

おそらく何もできない。何も出来ないが、それでも、自分が思うことを思うなりに行動する。自分の価値観を自分の言葉で伝える努力をする。それが、たとえ些細な取るに足りないことだとしても、カーネル読書会を続け、U-20プログラミングコンテストの審査員をし、セキュリティ&プログラミングキャンプの講師をし、自分の価値観を一人でも多くの人と共有する。日記を書き、Webに記事を書き、面白いことを面白いといい、すごいことをすごいと言う。勉強会勉強会を開催し、参加者にはブログで感想を書いてくれとお願いし、カーネル読書会はビデオにとって、未来のいつか世界の誰かに観てもらう。それを愚直なまでに続ける。ひたすら続ける。極東の東京という地域で蝶々が羽ばたいただけの効果しかもたらさないかもしれないが、それをわたしは続ける。そしてそれをわたしだけではなく、半径5メートル位にいるわたしの友人や知人に同じようなことを同じような範囲で行ってくれるようお願いする。同じ様に行動する人もいれば、そうでない人もいるだろう。しかし、自分の価値観に正直になってそれを続けていけば、ひょっとしたら日本語は蘇るかもしれない。

カーネル読書会は、シリコンバレーで日々行われている自由闊達なコミュニティのミーティングをコピーすることによって始まった。そして10年続けていたらそれは日本語によって技術的なヨタ話ができる場になったと思う。学会でもなく業界団体でもない。

わたしは根拠なく楽観している。日本語が蘇ることは難しいとも思うが不可能ではないとも思っている。