なぜ日記(ブログ)を書くのか。
昨日、はてなエンジニアブロガー祭りなんかに行ったものだから、なぜブログを書くのかとか、炎上しちゃったことはないかとか聞かれた。
http://developer.hatenastaff.com/entry/2013/12/03/132719
考えた。自分の日記が炎上した記憶はほとんどない。ちょっと釣り気味のタイトルを付けたことはあっても、炎上を狙って日記を書いたことはない。ブックマークがいっぱいついた日記はあるし、そのブックマークのコメントがちょっと上から目線でイラッと来たことはあっても、それによって多くの人から非難囂々ということは多分ない。というかそのような記憶はない。あったとしても忘れているのかもしれないけど。
どう考えても犯罪とか、極度に反社会的な意見を持ってそれを世界に情報発信だーーみたいなことをしていないので、例えば、飲酒運転なうとか、バカ発見機に発見されることはない。もちろん飲酒運転もしないし、脱税もしないし、選挙に行かないで、享楽に身を投じるということもない。
普通の人の普通の生活を記していれば、特に炎上することもない。当たり前である。政治的なネタもほとんど書かないので、意見が割れて賛否両論というようなこともない。宗教についても書かないし。
じゃあ、どんなことを書いているか。どのように書いているか。それをいくつか記す。
日記は自分の行動を過去形で記す。
本を読んだ。イベントを開催した。どこかに行った。そのような行動を記しておく。やったこと、やらなかったこと。それを記しておく。いい悪いの判断はそこには出てこない。
事実と意見をはっきりと書く。本を読んだときの感想は意見だ。面白かった、つまらなかった、それは自分の意見だ。面白かったことを表現するときに、全俺が泣いた、というのは泣いたのなら事実だ。泣いていないのならフィクションだ。
若干盛る表現になることもある。それは日記の中の虚構だ。
当事者でもないのに批判しない。
安易に批判をしない。特に当事者でもないのに、批判はしない。どう考えてもおかしいだろうということは世の中に満ちあふれている。政治家はなんで、あんなにも無能なのだろう。官僚はなぜ保身ばかりに走るのだろう。というようなことを正義感に酔って、書かない。正義感ほど始末に負えないことはない。自分を酔わせる麻薬である。
若者を批判したり、老人を批判したり、政治、国家のあり方、誰かを批判したくなるようなことは山のようにある。だけど、自分のルサンチマンをはらすために日記を使わない。少なくともわたしはそのような日記を書きたくもないし、読みたくもない。
日記の読者は自分だ。未来の自分だ。
自分が書きたいものを書く。自分が読みたいものを書く。誰のためでもない。自分のために書く。この日記のタイトルを「未来のいつか/hyoshiokの日記」としているのもそのためである。
読んでいて楽しい日記を書きたい。それは未来の自分への贈り物である。