未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

クソリプ

Twitterなどで返事(リプライ)がひどいものをクソリプ(クソみたいなリプライと言う意味か)と言うらしい。

例えば、下記のような例がある。

特にどうというものでもない言明に対して、いろいろな角度からツッコミがはいる。どーでもいいだろうと思うようなツッコミだらけになって何を話題にしているかすら定かではなくなる。

「XはAである」という記述に対して「AでないXもあります」「AなXが嫌いな人もいる」(あといろいろどーでもいい言明が続く)などなどリプライがついてくる。それをクソリプというらしい。

クソみたいなリプライなので、事の本質からどんどん離れて行く。何か生産的な議論がされるわけでもない。時にはけんか腰の言い合いというか罵り合い発展したりする。

最初の書き込みが、単なる記述で、そこに価値判断(良い悪い)などが含まれていようがいまいが、クソリプが返ってくる。

豆腐の色なんて、どーでもいいわけであるが、なんかのきっかけでクソリプのあらしになってしまったりするとお気の毒としか言いようがない。

しかし、クソリプこそがインターネットの華だと思う。この華があるからこそ様々な意見を発見することができ、多様性を担保することができるようになる。

ヒトの書いたことを全く読まずに誤読と言うか、独自解釈をずんずん行って激憤して怒鳴り込んでくる人すらいたりする。

クソリプはある一定度以上につくので、しょうがないと思ってスルーするのがよろしそうだ。

一方で自分のリプライも大抵クソリプだ。
「日本人は農耕民族なので〜である」なんて発言に対して、ちょっとまった、日本人で農業に従事しているヒトなんは1%もいないぞ、どこが農耕民族なのだ。というようなやり取りを普通にしていたりする。まさにクソリプである。クソリプを繰り返しているうちに、なんでこの話をしていたんだっけとふと冷静になる瞬間が訪れたりして話がややこしい。

一人で自分にクソリプをつけたりするとブレスト状態になったりするのだろうか。一人ブレスト。一人クソリプ。意外といいかもしれない。どーでもいいアイデアをいっぱい作って行くうちに素晴らしいアイデアが出たりするかもしれない。クソリプこそ現状を打破するヒントが満ちているのではないだろうか。

まさにどーでもいいエントリーであった。