未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

古都 (新潮文庫)、川端康成著、読了、濫読日記風 2018、その47


古都 (新潮文庫)を読んだ。

「もみじの古木の幹に、すみれの花がひらいたのを、千重子は見つけた」

千重子は捨子であったが京の商家の一人娘として美しく成長した。自分に瓜二つの村娘と出会うことによって物語は動き始める。

古都の面影、季節を淡々と織り込む。

川端康成のあとがきがある。文庫本にあとがきがあるというのも不思議な感じがするが、それはそれで興味深かった。昭和36年(1961年)ころの新聞小説だったらしい、


濫読日記風 2018

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)、イヴァン・イリイチ著、Ivan Illich(原著)、渡辺京二&渡辺梨佐訳、読了、濫読日記風 2018、その46

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)を読んだ。

知人から読書会のお誘いを受けて読み始めたのだが、非常に面白かった。

イリイチ(1926 - 2002)はウィーン生まれの思想家、学校・病院制度に代表される産業社会への批判で知られる。教育、医療、エコロジー運動、コンピュータ技術など、多分野に影響を与えた。

二つの分水領。

第一の分水領。現代の医療の進歩によって人々の生活に改善をもたらした。水の浄化、幼児死亡率の低下、ネズミの駆除によるペストの無力化、梅毒の予防、糖尿病への対応などなど。

この分水領を超えることによって、医原病が発生するようになった。それが第二の分水領。

専門家によって定義された病気が発生することになる。

同様なことは他の産業主義的諸制度でも見られる。(32ページ)

イリイチは自立共生的(コンヴィヴィアル)な再構築を提案する。コンヴィヴィアリティ(自立共生)という言葉を産業主義的な生産性の正反対を明示するものとして使う。(39ページ)

彼のイメージしている産業主義的なものには教育、医療などの制度や、道路などのインフラストラクチャー、自動車のようなテクノロジーなどなど広範囲なものが含まれる。

ざっと一読したのだけど、なかなか訳文がすっと入ってこない。読書会のメンバーで音読しながら段落ごとに議論をして理解を深めている。ゆっくり読みながら理解するという方法は読書会ならではだと思った。

読書会での精読で半分ぐらいまで行ったが、自分はざざっと目を通して、今後ゆっくりと議論をしながら自分の理解を確認したいと思った。

1973年の著作なので、その後の技術の進化(特にIT技術に代表されるもの)やGAFAのような地球規模の多国籍企業の支配などの文脈で再評価してみると面白い。環境問題の理解も1973年の時点とは随分違ったものになってきている。


濫読日記風 2018

離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応、アルバート・O・ハーシュマン著、読了、濫読日記風 2018、その45

離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応 (MINERVA人文・社会科学叢書)を読んだ。

創造的論文の書き方、伊丹敬之著、読了、濫読日記風 2018、その44 - 未来のいつか/hyoshiokの日記 で読んだ「創造的論文の書き方」でハーシュマンを紹介していたので、興味を持って読んだ。

本書は離脱・発言・忠誠というキーワードから、組織や社会と個人の関係だけではなく、経済的な活動にまで議論を広げている。

個人がある組織やコミュニティに属しているとして、その組織なりコミュニティが自分にとって期待するものでなくなった場合、そこから離脱するのか、発言をして内部からそれを変えるのか、様々なオプションを取りうる。経済的な観点から言えば、ある商品なりサービスが自分にとって十分満足がいかないものであれば購入を止めることが離脱だし、クレームをつけ供給側の変化を期待するのが発言、そのまま利用するのが忠誠ということになる。

ハーシュマンはこの「離脱・発言・忠誠」というキーワードを使うことによって経済学と政治学を同じフレームワークで議論することを試みている。

消費者が離脱オプションを利用できるのが通常の競争の特徴である。しかしながら離脱オプションが本当のところどのように機能しているかについてはあまり明らかになっていない。(23ページ)

発言オプションについて離脱オプション同様の「回復メカニズム」として、どのような場合離脱オプションではなく発言オプションが取られるのか。(34ページ)

例えば、公立学校と私立学校の例を考える。公立学校の教育の質が低下した場合、近所に良い私立学校がある場合は、親たちはわが子を私立学校にやろうとする。発言して公立学校の品質を向上させるのではなく、離脱オプションをとる。そのため公立学校の改善は進まず衰退していく。仮に私立学校という代替的選択肢がなければ、親たちは断固たる覚悟で衰退に立ち向かうはずである。(52ページ)

政治的な対立の場合について日本とラテンアメリカを例に語られている。

島国であることによって日本では、政治的対立の可能性に対して厳しい限界が設けられている。亡命が簡単にできないために妥協する美徳が教え込まれている。アルゼンチンの新聞の編集者なら、逮捕や暗殺の危険にさらされれば、川を渡ってモンテヴィデオに逃げ込み、そこで今まで通り家庭を持つ生活を送れるだろう。(中略)。大部分の日本人にとって、母国こそ唯一の居場所だった。(67ページ)

忠誠は、発言を活性化する。自分の組織を正しい軌道に戻すことができると確信しているメンバーによってなされる。(86ページ)

組織への参入費用を高くし、離脱に対し厳しいペナルティーを設定することが、離脱あるいは発言、もしくはその両方を押さえつける忠誠を生みだし、それを強化する主な方策の一つである。(100ページ)

アメリカ的イデオロギー・慣行のなかの離脱と発言。(第8章)。アメリカは発言よりも離脱を重視してきた。(ヨーロッパからアメリカに逃げだしてきた17世紀の人たちを先祖に持つ)

働き方というコンテキストで個人と会社の関係を考えてみるとこうなる。なんだかよくわからない、ソリの合わない上司との関係に疲れ転職するのは「離脱」であり、いろいろとコミュニケーションを取ろうと努力をするのが「発言」である。自分の会社の業績が悪化して、成長に見切りをつけて転職するのは「離脱」であり、V字回復を目指していろいろと努力するのは「発言」である。

日本では組織に対して「離脱」オプションを取ることはあまり奨励されていないように感じる。人材流動性が低い要因の一つではないだろうか。石の上にも三年。離脱することは裏切り者と呼ばれる。

かといって「発言」オプションも空気を読めという同調圧力にさらされる。

結局、過度に「忠誠」オプションを期待される。

働き方において「離脱」オプションが増えていけば、経営者は自らの経営の質が低下しているということを知るシグナルになり、それを改善するきっかけになる。従って過度な「忠誠」オプションを求めることは経営の質を下げることになり好ましくない。職場を健全に保つために、「離脱・発言・忠誠」のバランスを取る必要がある。

本書を読んでそのようなことを思った。日本の組織を考える上でもヒントに満ちた良書である。

翻訳は今回が初めてではなく1970年にミネルヴァ書房より三浦隆之役「組織社会の論理構造ー退出・告発・ロイヤルティ」として出版されていた(206ページ)。

新訳(本書)では、Exit/Voice/Loyaltyをそれぞれ離脱・発言・忠誠と訳している。(同ページ)
個人的には新訳の方が馴染みがある。


濫読日記風 2018

創造的論文の書き方、伊丹敬之著、読了、濫読日記風 2018、その44

創造的論文の書き方を読んだ

この日記で何度も触れているように論文の書き方については「理科系の作文技術 (中公新書 (624))」がバイブルだと思っている。細かいテクニックについては類書を参照するとしても基本は「理科系の作文技術」だ。*1 *2

知人のタイムラインで本書を紹介されていたので手にとってみた。

前半が伊丹敬之と彼の教え子との対談、後半が具体的な論文作成技法になる。

学問分野を日本では自然科学系(いわゆる理科系)と社会科学、人文科学系(いわゆる文系)と分けることが多いが、本書は主に文系の論文作成について議論している。
(研究という行為は理系も文系も若干の方法論の相違があるとしても共通の何かがあると思っているので、必ずしも文系理系というわけ方を自分は取らない。)

実験レポートなどはすでに議論すべき問題が与えられているので、本書で議論する論文の範疇から若干外れる。本書で議論している論文の対象は「いい研究」を「いい文章」で書かれたもので、それを「創造的論文」と読んでいる。(2ページ)

創造的研究をまとめたものが創造的論文で、創造的研究をどのようにするかという方法論を紹介するという立て付けになる。つまり、「目に見える現象の背後に隠されている原理・原則をどう発見するか。それが研究活動の本質的な内容である」。(2ページ)

対話篇では、伊丹と弟子たちが1)研究をするということ、2)文書を書くということ、3)考えるということ、勉強するということについて議論している。その議論が伊丹ゼミでの指導あるいは対話のような体裁で表現されている。読者は伊丹ゼミでの議論を聞いているような臨場感を味わう。

経済学での研究の方法を、ハーシュマンの「経済発展の戦略」を題材に語るくだりがある。(37ページ、60ページ)。理論と現実からどのように研究していくかの事例から、研究方法論を抽象化している。

研究の仕方、文章の書き方を後半の概論編で紹介している。1)テーマを決める、2)仮説と証拠を育てる、3)文書に表現する、4)止めを打つ、5)小さな工夫、ふだんの心がけ

創造的研究というものがどのようなものか、どのように進めるのかという問題についてヒントに満ちたものになっている。

じっくり読んで創造的研究というものを自分の血肉にしたい。実践できるように研鑽を積みたいと思った


濫読日記風 2018

マタギ(ヤマケイ文庫)、矢口高雄著、読了、濫読日記風 2018、その43

マタギ 矢口高雄 (ヤマケイ文庫)を読んだ。

東北の行き当たりばったりの旅に持っていった。マタギ(狩人)の仕事を紹介している。分厚いがマンガなので読みやすい。


濫読日記風 2018

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち (ハヤカワ文庫 NF)、スティーヴン・ウィット著、関美和訳、読了、濫読日記風 2018、その42

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち (ハヤカワ文庫 NF)を読んだ。

これはすごい本だ。mp3を開発した男(国際標準化で大手企業と渡り合った)、田舎の工場で発売前のCDを盗んでいた労働者、業界を牛耳る大手レコード会社のCEOなどが登場する。

違法コピーがどう流通していったか、mp3がどう開発されていったか、音楽業界のビジネスモデルがどのように変化したか、全くもって知らなかったことばかりだ。「なんでこのことを今までだれにも話さなかったんだ?」「あぁ、だって聞かれなかったから」(14ページ)。シビれる。

CDは売れなくなったが音楽業界はしっかりと生き残っている。

図書館本。


濫読日記風 2018

社会的共通資本 (岩波新書)、宇沢弘文著、読了、濫読日記風 2018、その41

社会的共通資本 (岩波新書)を読んだ。

社会的共通資本とは何かについて門外漢にもわかりやすく説明している。

自分は社会的共通資本というものをよく理解していなかったので本書によって学んだ。

社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、豊かな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力のある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会装置を意味する。(iiページ)
社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三つの大きな範疇に分けて考えることができる。

経済学の新古典派は社会問題は市場が見えざる手によって解決するので政府・公共政策の介入を最小限にすることを主張する。

しかし、公害問題をはじめとして、市場だけでは解決できない問題が様々ある。例えば道路、交通機関上下水道、電力・ガスなど社会的インフラストラクチャーなどはそれにあたる。また教育、医療、司法、金融制度など、制度資本なども社会的共通資本の重要な構成要素である。

自動車の社会的費用(岩波新書)、宇沢弘文著、濫読日記風 2018、その16 - 未来のいつか/hyoshiokの日記で読んだ「自動車の社会的費用」も「社会的共通資本」のコンテキストで考えてみるとわかりやすい。

本書は1)社会的共通資本の考え方、2)農業と農村、3)都市を考える、4)学校教育を考える、5)社会的共通資本としての医療、6)社会的共通資本としての金融制度、7)地球環境。広範囲かつ網羅的に議論している。

オープンソースソフトウェア(OSS)の整備などは「社会的共通資本」としてコミュニティが整備・維持・管理している。市場、政府・公共ではないコミュニティ(第三セクター)の役割についての議論が必要だと思った。

地方都市の問題などは2)と3)で議論している。

「社会的共通資本」フレームワークは様々に応用可能で、例えば日本という地域を再生するとき、議論の枠組みを提供していると思った。(主語が大きくなりがちだけど、市場で解決するという新古典派とは距離を置く立場になる)

オススメの一冊だ。


濫読日記風 2018