未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

アジアの中心で

はてなで自分のプロフィールを書いてそれを最初のページにはっつけておくいい方法はどんなのがあるのでしょうか?>教えてはてな

仕事の話がらみのことを書きたくなったときやはり素性を明かしておきたくなることもあるわけで、読者にとっても、こいつはいったい何者なんだという判断の基準になるんじゃないかと思ったりして。見ず知らず人のページをみるとき興味があった人のプロフィールとかを思わずクリックしている自分がいるので、そー推測したりするわけであるが。

それはともかく。

Linuxの会社なんかをやっているので、当事者として日本のITベンダー、特にハードウェアベンダの動きが気になるのだが、米国ITベンダーにやられっぱなしというような印象を持ったりする。大学を卒業して最初に就職した会社が外資系(米国)だったので、日本にいながら外様として日本のITベンダーを眺めてきたような気がする。つくづく思うのはIT業界のルールは米国系のベンダーが決めているなあということである。

それはともかく。

わたしは日本人なので英語で思考することはなく、日本語で思考しているわけで、知らず知らずのうちに日本語で思考するという文化的な制約とかいろいろ見えないものをしょっているのではないかと思う反面、いろいろな人たちと付き合っていくうちに自分の考えを理解してもらうにはどうしたらいいかというような経験則を少しずつ身に着けているような気もしたりして。

それはともかく。

最初の会社での自分の最初のプロジェクトは日本語版COBOLの開発という実に地味ななんとも言えないプロジェクトだったわけで、若い人は多分COBOLというそのものを知らなかったりして。

それはともかく。

わたしはそのプロジェクトでソフトウェアエンジニアリングのイロハを教えてもらってプロダクションスケールのソフトウェア開発はどういうものかを実地訓練させてもらったわけである。

正直言えば外資系のベンダーに就職した自分としては、もうちょっとなんというかかっこいいというかカタカナっぽいプロジェクトを期待していたわけで、おいおいCOBOLかよ、死滅した言語じゃないかとか、25歳のワカゾーは生意気にも思ったわけである。

三番町のオフィスは春の花見にはベストのロケーションではあるがそれ以外は取り立ててとりえのないふつーの貸しビルにあった。唯一つオフィスの中で印象に残っているのは、会議室が壁一面、文字通り天井から床まで、ホワイトボードになっていてミーティングのときいきなり壁にいろいろ書くというのがとっても新鮮だったことを覚えている。

ホワイトボードはアイデアの源泉なのかもしれない。

それはともかく。

米国のCOBOL開発チームのプロジェクトリーダーがトレーニングと称して来日し、わたしを含む日本語COBOL開発チームに手取り足取り教育をしてくれた。

わたしのあやふやな記憶によれば(既に20年近く前の話なので間違いがあるかと思うが勘弁してほしい)、VAX COBOLソースコードの行数は多分20万行程度であったと思う。わたしの現在の感覚で言うと中規模のソフトウェアであるが、大学卒業したての若造(じぶんの事)にとっては想像もつかないほど大規模なソフトウェアであった。

20万行のソースコードを印刷するということはさすがに無謀であるという事ぐらいは素人の若造にも想像できた。後にその一部を印刷したのだが…

それはともかく。

ソフトウェアエンジニアリングのイロハとしてツールの話とかデバッグの話とかいろいろ教えてもらった。そのどれもがわたしの血(知)となり肉となり今に至っていたりする。

それはともかく。

コンパイラの設計と実装というか、商品としてのソフトウェアを開発するのは初めての経験だったわけで。なんかの参考になるかもと思って買ったドラゴンブック(知らない人はGoogleかなんかで検索してください)を英語の本で初めて隅から隅まで読んだわけで、生意気にも当たり前なことしか書いてないじゃないかとか思って、後に当たり前の事を書くということがいかに大変なことかということを知り、あるいは当たり前なことを発見するということの大変さを実感し、世の中のバイブルと呼ばれている本の奥深さを…

それはともかく。

デバッガーの使い方やらソースコードの読み方やらプログラマとして生きていくうえでのイロハを習ったような気がする。

それはともかく。

日々何かを実装し何かをテストし何かをデバッグしていた。延々とそれを繰り返していた。

コンピュータで日本語をどう扱うべきかを本気で考えた。

マネージャは富士通のJEFを参考にしろと言った。

わたしは何か別のものがあるのではないかと漠然と思った。

プログラミング言語は文字として明らかにアルファベット以外の文字を考慮していなかった。アルファベット以外の文字すなわち日本語では漢字、カタカナ、ひらがなをプログラミング言語が扱うことは困難であった。

解くべき問題があった。重要な問題があった。

日本語COBOLの開発を行いながら漠然と何かがおかしいと感じていた。

当たり前なことが当たり前でないということを発見した。

25歳の若造はない知恵を絞りに絞った。