未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

当事者になるということ

時々思う。本当に日本と言う地域は評論家だらけだと。冗談じゃない。あんたはそれをやったことがあるのか?汗をかいたことがあるのか?それだけ言うのなら自分でやってみろ。
なんてことを言うのは大人気ない。大人はそういうことを言わない。ぐっとこらえてミステリアスな笑みを浮かべると言うのが正しい日本人の姿だ。
時々日本に対する違和感を持つことがある。そりゃ違うだろうと思うことがある。それに対してどのような態度をとるのか?どのような態度をとることによってその人なりの生き方が見えてくる。
多分わたしは自分が自覚するかしないかにかかわらづ日本人が暗黙のうちに持っている掟をどこかで踏み外しているというような感じがする。それがいいことか悪いことかは別としてそのような感じを持つ。
90年代日本のIT産業の出口がなくなったとき多くの人は何もしなかったし、そもそもそこに問題があるとは思っていなかった。大丈夫か日本なんていう論陣を張る人間をわたしは見たことがない。梅田望夫はそのような問題意識を持った稀有の存在だったが当時の日本はそのような危機感を共有していなかった。
わたしは当時、日本に絶望し日本と言う地域で技術者として生きていくことに困難を感じていた。そのような技術者はどうすればいいのか?わたしの解は単純であった。簡単である。シリコンバレーに行けばいいのである。わたしはシリコンバレーに行った。95年のことである。
90年代中ごろ、自分の専門性に正直になり、RDBMSの開発者として生きていくには日本と言う地域には職場がなかった。声高にそれがおかしいとか、それでいいのか日本などと言う前に、自分の中で決着をつけるのは簡単である。シリコンバレーに行けばいいのである。そこには自分の専門性を活かせる職場があった。
そこは日本と言う地域とは全く違った実に雑な乱暴と言っていいほどの場所であった。にもかかわらずそこには希望があった。日本にないものそれは希望である。シリコンバレーの底知れぬ力はそこには希望があるのである。
正直に言えばわたしは日本と言う地域で自分の専門性を活かす事に絶望していた。食うに困らない仕事はいくらでも日本と言う地域にはあった。でもそれがわたしがやりたいことなのか?自分に正直になる事なのか?
戦後、わたし達の先輩達が歩んでいった道は貧しくてもそこには希望があってそれをかてに人類史上まれにみる経済的な成長を遂げた。その奇跡の原動力は希望である。90年代の日本になくてシリコンバレーにあったものは、希望である。
シリコンバレーで実装できて日本で実装できないものがあるのか?あるとしたらその差は何なのか?制度や社会環境の違いはいっぱいある。その彼岸の差を嘆き悲しむだけなのか?その差をどうにかしたいと思うのか?思わないのか?
シリコンバレーで何年か過ごしそこで生きているエンジニアと付き合ってわたしは確信を持つ。彼らとわたし達に差がどれほどあるのか?同じ人間である。技術力にどれほどの差があるのか?断言する。同じである。差はない。唯一差があるとしたら、自分の夢にどれだけ正直になれるかなれないかである。
わたしは評論家ではない。実務者である。プログラマである。コードを書くことに価値を見出す。そしてその価値に絶対的な価値を見出す。ぶれのない物差しを自分の中に持つ。わたしは自分の夢に正直な人を尊敬する。彼らは決して言い訳をしない。人のせいにしない。困難があってもそれに立ち向かう。
わたしがいらだつのは言い訳をする人に向かい合ったときである。たかがブログで熱くなるなよと自分でも思う。評論家になるな、実務者たれ。これは自分に向けての言葉である。
ご清聴ありがとうございました。