未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

プログラマ

多分、わたしの使っているプログラマという言葉が意味する職業と多くの人のイメージするプログラマという職業は微妙に異なっているのだろう。
お客さんの業務システムを受注してそれをおさめるという仕事があるが、SIとか言われていたりする、わたしの専門性はその分野にないので、そこでどのような仕事がされているかは実のところよく知らない。なのでSIの人とわたしのイメージするプログラマという職業とではやはり微妙に違うような気がする。
わたしは主にソフトウェア製品を作る人々についての議論になる。SIでお客さんのアプリケーションを開発している人々のことはここではふれない。常々記しているように日本と言う地域には、国際競争力のあるソフトウェア製品というのがほとんどないので、上記の意味での職業的プログラマというのは日本には残念ながらほとんどいない。ソフトウェア製品での勝負は90年代米国の一人勝ちだ。勝負あった。
そこでオープンソースソフトウェア(OSS)である。OSSであれば、OSであれRDBMSであれWeb serverであれアプリケーションサーバであれとりあえづ米国に行かなくても職業として日本という地域に住んでいても関われる可能性がある。
PostgreSQLであればSRAだし、SambaであればMIRACLE LINUXで仕事として関わることができる。小さな会社なので絶対的な雇用に対するインパクトは誤差みたいなものだが、それでもなくはない。
90年代、汎用OSを作っている会社と言えばSun/HP/DECなどUnix系か、MSやApple、あるいはIBMメインフレームか、そんなもので組み込み等しょぼしょぼの世界だった。ところがLinuxだと参入障壁が低いので、従業員100人未満の小企業でもまがりなりにもOS製品を開発販売していたりする。(最終的に生き残るのは2〜3社だとしても)
日本と言う地域でプログラマを職業としたいものにとってはOSSパラダイムになったおかげで新しい雇用環境がある日突然生まれたようなものである。わたしはこれをビジネスチャンスだと思うし、わたしにとって、ソフトウェア開発で飯を食うというテーマにおいて、希望でもある。
90年代、わたしは日本に絶望していたと先に書いた。98年にNetscapeソースコードの公開を現場で見て、そこにとてつもない可能性を見出した。わたしがオープンソースとであった瞬間である。99年に日本に戻ってきて、OSSが自分の人生すら変える可能性を秘めていると直感した。ネットワークがあればシリコンバレーと言う地域にいなくても職業的な専門性をまっとうできるのではないかと言う希望を感じた。
その年、その可能性を実現するために、当時いた会社の社長にメールを書いた。「Linux版のRDBMSのポーティングを日本でやりましょう」。社長へのメールは社内掲示板に掲載されるシステムになっている。当時マーケティング部門でLinux版のRDBMS製品をプロモーションしていた連中がわたしに声をかけて来た。「hyoshiokさん、面白い話があるんですけど、一緒にやりませんか?」
彼らの提案はさらに過激だった。Linuxディストリビューションを作ると言う企画である。それが後にMIRACLE LINUXという名前で知られる会社になった。わたしはその企画にのった。99年末のころの話である。プログラマが会社の設立にかかわることになったのである。