未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

オープンサイエンス革命

オープンソースウィキペディアの成功によって実証されたインターネットを利用したオープンイノベーションが科学の分野にも起こるかということを解説している。

科学の発展は、科学者が発見したものを論文として公開することによってもたらされて来た。

ニュートンガリレオの時代は科学者が発見を広く公開することはなかった。世界最初の科学雑誌が発行されたのは1665年で、ガリレオが一連の偉大な発見をしたのが1610年のことだ。
閉鎖的で秘密主義的な発見の文化から、科学者が新しい成果をできるだけ迅速に出版しようとする現代の科学文化への移行は、いったい何によって引き起こされたのだろうか。(272頁)

17世紀における科学の大きな進歩には裕福なパトロンの存在がある。パトロン達が科学者達を支援した主な動機は、科学的な発見によってもたらされる公的な利益と、偉大な発見への援助者として与えられる名声にある。

科学的な発見をして、それを公開する。そのメディアとしての科学雑誌という文化が17世紀に開発された。

科学者は論文によって評価されると言うシステムが確立したわけだ。

この発見を広く公開するという科学の文化は、インターネットでの公開文化と親和性が高いと一見思える。公開することによって集合知が発生し知識が加速度的に増加するというモデルである。

科学者達が発見を論文にまとめるより前にいち早くインターネットに公開する。しかしながら、そのようなことは残念ながら起こっていない。

科学的な発見を公開することによって科学は進化する。それを体現して来たのが科学者であるにも関わらずである。

オープンソースによって実証された公開することによってソフトウェアは進化するというモデルがなぜ科学者の間で発生しないのか。(もちろん、成功しているオープンソースはごく一部だとしてもだ)

現在の科学者は論文によって評価されている。博士号取得者は、論文の数と質によって評価される。より有利な職を得るためには、いい論文を書かなければならないというプレッシャーにさらされている。インターネットにコメントを書いているヒマがあったら、少しでも論文を書く。それをしなければ助成金も得られないし、職も得られない。

インターネットがあれば集合知により科学的な発見活動が加速するというのは牧歌的な幻想なのかもしれない。もちろん、クラウドソーシング的な素人を多数集めて何かの作業をして科学的な知見を得るというのはある。しかし、専門家が職業として行うというのは考えにくい。

助成金交付機関が論文だけではなく、オープンサイエンスへの貢献にたいしても評価すると言うことを打ち出さない限りその移行は進まない。

わたしは、オープンソースの奇跡を間近で見ているものとして、オープンサイエンスへの移行は必然で、それも着実に進んでいるものと夢想していたが、現実はそれほど簡単でもないということを本書で知った。科学者が置かれている立場と、科学の発展を支えている、「仕事をし、論文を書き、ジャーナルに発表する」という制度設計を、インターネット時代にあわせて修正する必要があるのだなということを知った。

オープンデータなども共通の課題があると感じた。

情報の公開を進展させるための制度設計を考えるためにも本書はお勧めである。