未来のいつか/hyoshiokの日記

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カラマーゾフの兄弟を再読した、濫読日記風、その19

ドストエフスキーの読書会の最後の課題本が「カラマーゾフの兄弟」で、課題的には一回読了している*1ので特に問題(?!)はないのだけど、なんとなく再読するくらいの勢いがないといけないのではないかと思い新潮文庫版(原卓也訳)で飛ばし読みをした。

その感想。長い上に落ちも結論もありません。

連続する読書会「ドストエフスキー

ドストエフスキーの読書会、最終回は「カラマーゾフの兄弟」だ。読んだよ。読んだ。読みましたとも。この傑作を。読了したツワモノたちの中に一人で入りましたとも。

おなじみの光文社古典新訳文庫亀山郁夫訳)でガッツリ読んで、勢い余って、二周目に突入して、今度は新潮文庫版(原卓也訳)で読んだ。

光文社古典新訳文庫には、主要登場人物の名前が書いてある栞が付いているので、初心者に優しい。そればかりか、各巻ごとに亀山郁夫先生の読書ガイドが付いている。なじみの薄いロシア文学あるいはドストエフスキーの人となりなどを知るには最高の構成になっている。光文社古典新訳文庫ラブである。

通常、文庫本の「解説」とか「あとがき」とかどう考えても手抜きのあってもなくてもいいよな、むしろないほうがいいくらいのものが多いが、この亀山読書ガイドはそれだけで独立して読めるだけの内容が詰まっている。各巻ごとにあらすじ、主な登場人物のキャラクター、時代背景などが解説されているので、ロシア文学リテラシーが全くなくてもふんふん、そーゆーことなのね、と読める。ドストエフスキーどころかロシア文学を一冊も読んだ事がない自分にとって重要な地図と羅針盤になった。*2

強欲なカラマーゾフさんとその息子(三兄弟)の物語で、お父さんのカラマーゾフさんが誰かに殺されて、その容疑者として長男(ミーチャ)が逮捕され、裁判にかけられる、というのが非常にざっくりとしたあらすじである。

ネットで「兄弟」を調べてみても、あまりネタバレを発見できない。誰も読んでないんじゃないの?と思わなくもないが、2000ページを超える小説のあらすじを記すだけでも大変だし、いきなりネタバレするようなことを書くというのも何を書けばネタバレになるのか、それすらもよくわからないという状況なのではないかと予想する。

本書は長編ミステリーとしても読めるし、人間の欲望、宗教と無神論、科学と宗教、人間社会にまつわるありとあらゆるものが全部入っているヒューマンドラマとしても読める。

まあ、そんなこんなで一回目はストーリー展開に翻弄されながら読んだ。そして何を思ったか新潮文庫版ですぐに再読した。

青空文庫に「カラマゾフの兄弟」の上巻があるので、作者の序論を引用する

作者より

 この物語の主人公アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマゾフの伝記にとりかかるに当たって、自分は一種の懐疑に陥っている。(中略)
それにしても、自分は、こんな、実に味気ない、雲をつかむような説明にうき身をやつすことなく、前口上などはいっさい抜きにして、あっさりと本文に取りかかってもよかったであろう。お気にさえ召せば、通読していただけるはずである。ところが、困ったことには、伝記は一つなのに、小説は二つになっている。しかも、重要な小説は第二部になっている――これはわが主人公のすでに現代における活動である。すなわち、現に移りつつある現在の今の活動なのである。第一の小説は今を去る十三年の前にあったことで、これはほとんど小説ロマンなどというものではなくて、単にわが主人公の青年時代の初期の一刹那いっせつなのことにすぎない。そうかといって、この初めの小説を抜きにすることはできない。そんなことをすれば、第二の小説の中でいろんなことがわからなくなってしまうからである。しかも、そうすれば自分の最初の困惑はいっそう紛糾してくる。すでにこの伝記者たる自分自身からして、こんなに控え目で、つかみどころのない主人公には、一つの小説でもよけいなくらいだろうと考えているのに、わざわざ二つにしたら、いったいどんなことになるであろう。それにまた、自分のこの不遜ふそんなやり口を、どうして説明したらよいであろう?
http://www.aozora.gr.jp/cards/000363/files/42286_37300.html

つまり、2000ページ以上費やして描かれた「兄弟」の全体を読んだつもりになっていたのだが、自分が読んだのは二つある小説のうちの前半部分だけだったのである。そしてドストエフスキーは前半部分を書き終えたのちにすぐになくなっている。

すなわち「カラマーゾフの兄弟」という小説は未完の大作なのである。

一度目読んだ時は「作者より」に明示的に描かれていることなんか見事にスルーして、壮大な物語に翻弄されて、そういう構造だったのかというのを全く読解できていなかった。自分の読解力の無さというかリテラシーの低さに絶望した。

二周目に突入してみると、作者が置いていった伏線や、それの回収方法など、物語の構造にも目が行くようになって、ドストエフスキーの巧みなストーリー展開に目を見張ることになる。あらすじを追わなくていい分、メタな部分に注意が向く。

そうすると、細かいところにも注意がいって面白い。テキストをリテラルに追っていって、そこに書いてあることだけを読める。

下記は次男イワンの発言だ。

 しかしそれにしたって、一つ断っておかなくてはならないことがあるんだ。かりに神が存在し、この地球をじっさいに創造したとしてもだ、おれたちが完全に知りつくしているとおり、神はこの地球をユークリッド幾何学にしたがって創造し、人間の知恵にしても三次元の空間しか理解できないように創造したってことさ。
 ところが今でも、全宇宙、いやもっと広く全存在がユークリッド幾何学だけにしたがって創られたってことに、疑いを挟んでいる幾何学者や哲学者はいくらでもいるし、おまけに極めて有名な学者さんたちの中にさえいるくらいなのさ。そういう連中は、ユークリッドによればこの地球上ではぜったいに交わりえない二つの平行線が、ひょっとするとどこか無限の彼方では交わるかもしれないなどと、大胆にも空想しているんだよ。
カラマーゾフの兄弟 (光文社古典新訳文庫)第2巻217ページ

イワンは三次元の概念しか理解できない頭脳には神は理解できないと結論している。彼には「虚数の情緒―中学生からの全方位独学法」をプレゼントしたい。

それはともかく、科学や技術についての反発が見え隠れする。第4巻219ページには「クロード・ベルナール」の名前が見える。ベルナールは「実験医学序説 (岩波文庫 青 916-1)」を表している。

亀山郁夫の読書ガイドによると

クロードベルナールはフランス人の生理学者であり、「実験医学」の父とされる人物で、ロシアでは「カラマーゾフの兄弟」が書かれるかなり以前の一八六〇年代から、広く名前が知られていた。(中略)
ベルナールの生命観の根底にあったのは、いわゆる生気論の否定である。彼は、「生物の神秘的な<生命力>を持つ点で無生物とは異なっており、それゆえ無生物には実験的方法を用いることはできても、生物に実験的方法を用いることはできない」とする立場を否定し、「あらゆる自然現象は、特定の物理化学的条件のもと発現したり存在する」「その条件を変化させれば現象も変化させることができ、そうして自然現象を支配できる」と考えて、「事物の間には完全で必然的な関係がある」とまで考えた。ベルナールはこの「決定論」を全ての科学者が規範とすべき態度であるとしていた(カラマーゾフの兄弟 (光文社古典新訳文庫)第4巻699ページ)

松岡正剛の書評もある。 https://1000ya.isis.ne.jp/0175.html

カラマーゾフの兄弟というテキストからそこで示されている知見に遡っていくと無限に楽しめる。

機械による知性と人間の知性という問題は人工知能の問題にも通じるし、ああ、カラマーゾフの兄弟には、神と宗教という問題に絡めて、そんなことも議論していたのねと妄想を膨らませるとことができる。

イワン(次男)には「ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版」もプレゼントしたい。

妄想は尽きない。何度でも読みたい一冊になった。

面白い。

濫読日記風

*1:ドストエフスキーをいろいろと読んだ、濫読日記風、その17 - 未来のいつか/hyoshiokの日記

*2:小説は楽しめればいいという立場であれば、その小説の書かれた時代背景や様々なコンテキストを知らなくても、ストーリーに身を任せて一気に読めばいい。ミステリーなどエンターテイメントとして消費する場合は小難しい理屈はいらない。私もどちらかというとその立場で、文学論とか小難しい理屈をこねるというのはちょっと違うとは思う。しかし、一方で小説が書かれた時代背景を知ることによって、より作者の意図が明確になったり、読み落としていた部分を発見できたりする。それはその小説を深く楽しむことに他ならない。亀山郁夫の読書ガイドは読書の楽しみを増すので凡庸な「文庫本あとがき」とは一線を画す。