未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

OSSFJ - OSSのフリーライダー

ネタにマジレスかこわるいのだが。OSSフリーライダーというのを考えてみる。http://www.ossfj.org/
フリーライダーというのは、共有地の悲劇として知られている、誰もがそこから利益を得るのだけど誰もそこのコストを負担しないようなことが続くと、財が消費されて終わるという時、コストを負担せづに利益だけを得る人を言う。分かり難い説明ですまんす。
例として多分あんまり適切ではないと思うけど、公共放送のコストを受信料として我々が負担しなかったら公共放送は成り立たなくなっちゃうわけで、全員がフリーライダー、すなわち公共放送は見るんだけど、受信料は金輪際払わねーということだと、公共放送は成り立たない。話は微妙にづれるけど、もともと公共放送なんかいらない利用もしない見もしないなんていう思想の持ち主にとってはまあどうでもいいっちゃいい話。しかし、やっぱし、公共放送にはそれなりの価値があるんだからなくちゃあ困るという人は番組や編成やその組織に問題や文句があったとしても受信料を払って公共放送そのものを維持していく必要がある。なかなか難しいものである。
公共財は、みんなにとって必要なものだけど商品と違って利益追求が難しい、すなわち企業が参入することが難しいものに限って国や地方公共団体が提供する類のものである。警察や消防のサービスなんていうのが商品になるとは考えにくい。うちの消防サービスは他社の消防サービスに比較して消火率が格段にいいです。殺人事件の捜査なら当社におまかせ。とか、ありえねーよ。
サービス(教育とか医療とか)であったり制度的なものであったり(社会の仕組みとか法体系とか)、警察とか防衛とかの維持のコストは広く我々が負担している。
そもそもOSSに上記の意味でのフリーライダーというのがありえるのか?消費される価値というのがありえるのか?という問いである。狭義に捉えると、OSSを利用してもその価値は減らない。OSSを維持するコストというのをどのように考えるのか難しいところではあるが、誰かがLinuxソースコードをコピーして利用したところでLinuxの価値が利用に比例して減るというわけではない。広い意味でLinuxを維持しているコストは、直接的にはLinuxのコードを書いている人のコスト、それを流通させるためのインフラを提供しているコスト、各種サービスを提供している企業のコスト、実際に利用しているコスト、マーケティングをしているコスト等々、多岐にわたるが、商用ソフトウェアと異なりどこかの誰かが(企業が)、一社で負担しているというわけではなく、広く多くの参加者によって、その多い少ないはあったとしても、負担されているのである。Linuxの開発のかなりの部分をIBMやHPやIntel、最近ではOracle(とLarry Erisonnは宣伝していたみたいだけど)等々の大企業が行っていたとしても、数千人、数万人のふつーのプログラマのちょっとしたおびただしい数のパッチや改良もLinuxの発展に貢献していて、その開発コストはほとんどの場合無償で提供されている。そしてこのバザールモデルとして知られるエコシステムは、単にLinuxを消費する人々を排除していない。排除するつもりもないし排除しようがない。
商用ソフトウェアの場合は、通常は一社がその権利を独占しているので研究開発のコストを独占的に回収できる。勝手にコピーして利用するというのは許されない。
OSSはみなが勝手にコピーして利用できるので、OSSに関係している人や企業はOSSから直接的な資金回収はできない。にも関わらず上記の様な大企業は、それぞれのビジネスにおいてOSSに投資を行っているのである。フリーライダーを許容したうえで、多大の投資をしているのである。
この現実を理解しなければならない。従来型のソフトウェア産業の常識で理解することは難しい。参加型のプラットフォームというものを価値を理屈ではなく感覚として理解できるかということである。
狭義に言えば、ハードウェアベンダーはOSSに投資することによって、自社ソフトウェアを開発しそれから得られる利益よりも多くの利益を得られると考えるからOSSに投資しているといえる。各社独自のOSを維持管理するコストとLinuxに機能追加するコストを比較してどちらが得かというソロバンである。独自OSの価値をLinuxほどに高めることはニッチマーケット向けのOSを除けば汎用OSの場合絶望的に高い。OS単体では価値はほとんどなく、その上にミドルウェア、アプリケーション、ソリューション等々があってこそOSとしての価値が発生するのだが、独自OSの場合そのようなミドルウェアは通常まったくない。ゼロからのスタートである。ソフトウェアベンダーは売れ筋のOS以外はそれを移植しない。対象とするOSはせいぜいWindowsLinuxそしてUnixで終わりである。独自OSにソフトウェアベンダーが主力商品を移植しサポートするというのはよっぽどのことがない限り難しい。結局独自OSはプラットフォームとしての価値を向上させることが非常に難しく、維持管理するコストがLinuxに投資することによるコストより圧倒的に高くなってビジネスとしてペイしなくなるのである。
ハードウェアベンダーはハードウェアを売ってなんぼの世界であるから儲からない自社OSを維持管理するよりもLinuxの尻馬に乗ったほうが得だという判断である。ハードウェアベンダーもSIベンダーとしての側面を持っているから、その場合も自社製品に拘らないということもあり、ますますLinuxが推進されていくという仕組みになっている。
saoshimaさんがそこらへんの事情をまとめている(http://d.hatena.ne.jp/saoshima/20060301#1141257743
IBMを筆頭とするかつてのメインフレームベンダーは、ハードウェアベンダー、SIサービスベンダー、そしてソフトウェア製品ベンダーという3つの顔があるが、前者2つの側面は間違いなくOSSを歓迎している。最後のソフトウェアベンダーとしての側面はOSSとは競合する一面もあることに、メインフレーマの苦悩がある。DB2MySQLPostgreSQLと競合するし、WebSpherはJBossTomcatと競合する。
メインフレームベンダーの独自ソフトウェア製品がOSS製品に飲み込まれる日はそう遠くないと思う。とすれば、このOSSの波をどう乗り切るのか?
OSSの波は誰も止められない。大企業であろうがなかろうがOSSの波は誰にも止められない。フリーライダー大いに結構である。自社が積極的にOSSに参加しなくても勝手にOSSの価値は向上していく。しかし誰もOSSをコントロールできないとしても、その波を利用して上手に乗ることはできる。その秘訣はコミュニティに参加して議論に参加し、テストをしたり、バグを報告したり、それを修正したり、コードを書いたりすることによってコミュニティに貢献することにより受け入れられるように振舞うことである。必要な機能があるのならそれをコミュニティとコラボレーションして自分で作ってしまえばいいのである。その価値増幅のプロセスに参加することによってより主体的にOSSに関われるのである。これは製品開発の双方向化である。商用製品では決してありえない価値創造メカニズムである。OSSは参加することによってより価値を先鋭的に増幅する。
IBMは2000年の時点でこのメカニズムを理解して大企業としては驚異的な速さで対応した。そのきっかけはもちろん98年のNetscapeの英断であったとしてもだ。
OSSの価値は、それが提供するソフトウェアの機能そのものはもちろんのことだが、それ以外にもメーリングリストを中心とする情報共有メカニズムや、バグ管理システム(bugzilla等)、利用者、エバンジェリスト、広い意味でのコミュニティ等々のすべてからなる。多くの利用者がいて活発に議論しているコミュニティが紡ぎ出すOSSはそうでないコミュニティによるOSSに比べより持続可能なOSSとして発展していく可能性が高い。すなわち価値が高い。利用者が多ければ適用範囲も増え導入事例が増えればますますよく利用されていくというフィードバックループが発生するのである。そのようなエコシステムはフリーライダーを必ずしも排除しないところが面白い。
OSSFJの話をするつもりが、全然別の話になってしまったが、OSSの場合、フリーライダーが仮に存在したとしてもOSSに直接的な悪影響を発生しにくいというような意味でネタにマジレスかこわるいであった。